Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

ハーフ走破と足裏痛

4/20(日)、桜がまだ残る白石市中心部を20kmラン。
白石川緑地公園をぐるぐる6周も回った。白石川堤防の桜が綺麗だったし、早朝ソフトボールの皆さんがいて寂しくなかったから。最後の5kmくらいはヘトヘトになってしまって、足が上がらないとはこういうことかと思った。何故に最後に高架橋を登るルートにしたのかと自分を責める。急激なアップダウンは最後の気力まで奪い取った。
結果的にはハーフの距離21.1kmを1時間55分08秒にて走破。仙台ハーフマラソンの3週間前ということで、ちょうど良い負荷になったのではないかと思う。その後右足の裏が痛くて休足日を余儀なくされているけれど、ゆっくり治して、またハーフに向けて体を作っていきたい。ダビスタ的調整スケジュール(笑)


これはその前にランニング中に撮った写真。ブレるし横になってるしだけど、雰囲気が伝わるといいな。




足が治るまでは、しばし我慢の日々。

わが校下町


今日は息子の小学校の始業式!春の交通安全週間ということで、朝7時半から8時過ぎまで、近くの交差点で黄色い旗を持ちつつ信号横断の誘導をやっておりました。我が家の子どもたちもスクスクと大きくなってきたので、こういった子ども会や町内会のイベントなどにも顔を出しやすくなり、否応なしに地域コミュニティというものを自覚することになる。こうして街角に立って通学する小学生に「おはようー」「いってらっしゃーい」と声を掛けていると、このまちはみんなでつくってるんだ!という感覚が芽生えて、それが地域コミュニティの核になるんだなあ、とシゲシゲと思いながら立ってました。いやその、クシャミを連発しながらですけどね。


元々小学校というのは、そもそもわが町・わが村、いわゆる地域コミュニティの中に作られたわけで、必然的にそのあたり一帯の中心地になっている。で、もちろん通学に便利という理由で小学校の周りに次々と家が建つ。家があれば商店ができ、道路が整備され、自治会やらが組織される。そうしてできている町は、いわば城下町ならぬ校下町みたいなものなのかも知れない。


東日本大震災後の地域コミュニティを考える上で、小学校というのは重要なポイントであると何かで読んだ。上記のような理由だけではなく、災害時の避難所、情報集積地として重要な場所なのだろう。中学校になるともう少し広い地域が対象になる。あくまで小学生が徒歩で通学できる範囲ということなのだ。


などとぼんやり考えることができ、はからずも良い経験になったなあ、交通誘導。

別世界感

東京から白石に戻ってきて今年の夏で丸6年。徐々に出張する機会も増えてきて、来年度は6月に広島方面と名古屋、7月に大阪、多分8月に東京だ。大都市ばかりだな。
東京で働いていたころもそここそ出張があった。網走、石川、名古屋、大阪、徳島、沖縄。システムの構築やお客さんとの会議が主なので、町並みや、その土地に住む人々とその生活を感じる機会は少なかった。旅行もあまり行けなかったし、子連れの旅行になるとそういった余裕も無く。別世界感を味わえたのは、せいぜい新婚旅行で行った長野県渋温泉別所温泉くらいかなあ。


学生時代、実は僕は大学でちょっと有名なサークルに所属しており、毎年春と夏に旅行に行っていた。旅行といっても、テントや寝袋を背負って、18切符を持ち、基本的な移動はヒッチハイクという旅行であった。他にもサークル活動はなんというか色々あるのだけれど、その話は別途。
今思うと、あの時ヒッチハイクで旅行しておいて本当に良かったと思う。もちろんお金がかからないということもあるのだけれど、ヒッチハイクで乗せてもらった車の同乗者、あるは通ってくれる道、立ち寄ってくれる場所、それらがとてもその土地ならではのものであり、一般的なツアーや、ガイドブックを片手に友人とレンタカーでは味わえないものだったからだ。一人で見知らぬ土地に投げ出され、暑い中親指を上げ続け、やっと捕まった車の運転手と話をし、昼食や休憩に寄り道してくれて、近道やら遠回りやら田舎道やらを通ってもらい、降りてまた一人になる。いい経験だった。


訛りが強くて、最初から最後まで何を話しているのか分からない場合もあった。一日何十回と繰り返す自己紹介に疲れ果て、相手の聞き間違いを否定せずにいたら、いつの間にか東大医学部所属で、結果開業医の息子だが親を前年に亡くして傷心旅行に来ているという設定になってしまったケースもある。


熊本では、おそらく走り屋であろう若者(といっても当時の僕と同年代だったと思う)の集団に捕まり、リーダー格と思われる黒い車の後部座席に乗った。軽量化のためなのか、座席は無く、むき出しのマットの上にしゃがみ込むように座った。助手席の若者がひたすら話しかけてきて、仙台から来たとか、大学生だとか、ヒッチハイクで旅行しているとか言うとケタケタ笑った。何が面白いのかさっぱり分からなかった。正面に運転席のクラッチペダルやブレーキペダルが見えるのだが、幾つも穴が空いていた。どうやらハンドルもアルミ製だし、ギアレバーもチューンナップされていて、極限まで軽量化している様子が伺えた。しかし、前の二人は缶コーヒーを飲みながら、エアコン吹き出し口に付けたボトルケースに缶やら灰皿やらを乗せていた。軽くすんならコーヒー飲むなやーというツッコミをグッと飲み込んだ。
宮崎で乗せてもらった青いスポーツカーを運転する女性は、「これから広島に行くから、飛ばすよ」と言い、片側1車線の国道を時速100km超でひたすら北上した。サングラスとロングの髪が似合う、おそらく30代の女性なのだが、何の理由でそんなに飛ばすのか理解不能だった。


どこに行っても共通だったのは、ああ、僕が知らないところで、みんなそれぞれそれなりに頑張って生きているんだなあ、という感情だった。


そんな経験を通じて、その土地の印象が心に刻まれ、こうして15年も経つといい思い出になる。時々誰かとの話にふと思い出が蘇ってきて、笑い話になることもある。
もし可能ならば、また、あのような感情を味わいたいなあ。そんな風に思いながら、今年は出張に向かってみたいと思う。(ランニングシューズを忘れずに!)

サッカーマンデー&筋肉痛チューズデー(ウェンズデー?)

毎週月曜の夜は、息子が所属しているサッカー少年団の親が主催となって練習会を開催している。市内の体育館を借り、みんなで屋内でフットサルだ。
息子はほぼ毎週のように参加していて、僕も月1回程度参加させてもらっている。昔取った杵柄とばかりにサッカーに精を出すも、衰えた体は言うことを聞かない。思ったようには走れないし、思ったようにはボールをコントロールできない。必死に走って必死に蹴る。終わった後はぐったりと疲れて、翌日(翌々日?)は筋肉痛との戦いだ。それでも、息子と一緒にサッカーができる喜びは何物にも代えがたく、つい参加したくなってしまう。


昨日はずいぶんと久しぶりに参加。思っていた以上に体力が落ちてて自分的には全く思うようにプレイできなかったけれど、やっぱりボールを追いかけるのはただただ楽しい。時間を忘れて一生懸命になれるって素敵なことだ。まあ昔からそんなにテクニックがあるわけじゃなく、ただ献身的に走って走ってのスタイルだったから、走れないと何もできないんだよなー。そして本日は筋肉痛…(;´д`)トホホ…
ランニングを初めて数ヶ月経って、ちょうど秋ごろは体調も良く、翌日の筋肉痛が無かったことに驚いたものだった。しかーし!体調不良とか雪とかを理由に年明けからサボりまくった結果、また元の筋肉痛生活に逆戻りである。いやはや、5月の仙台ハーフに向けて体をまたイチからつくらないと。

「僕、ずっと忘れないと思う」

昨夏のこと。日帰り東京出張でもうすぐ帰りの新幹線に乗ろうとする頃に嫁さんから電話があり、息子がちょっとした事件を起こしたことを知らせてくれた。まあ些細といえば些細なことなのかも知れないけれど、少なくない人たちに迷惑を掛けてしまって、僕もそれなりにショックを受けた。新幹線は決まった時間で運行されていて、急いでも仕方ないのだけれど、何となく気が落ち着かないまま帰宅。既に息子は寝付いており、嫁さんから一部始終を聞いた。
息子的にも、自分がやったことを反省した様子だし、何しろ嫁さん含めた各方面から注意があったわけで、おそらく泣いただろうし、それなりにショックだっただろうということが伺えた。出張だったとはいえ、そういう時に立ち会えなかったことが悔しかったし、僕だけ置いてけぼりを受けたような感覚だった。


じゃあ、父親としてどうすればいいか。考えた。でも、考えても何をすればいいのか、息子にどんな言葉をかければいいのか、まったく分からなかった。


ふと、山に登ろう、と思った。もっと正直に言えば、息子と山に登りたい、と思った。それが良いことなのかどうか、どんなことを意味するのか、息子にどんな影響があるのか、全く分からなかった。でも、僕の心はどうしても山を向いていた。


翌日、息子と二人で家を出発した。リュックサックにはオニギリと飲み物を入れ、少し暑いのを我慢して長袖と長ズボンを揃って履いた。
行き先は近くの「鉢盛山」にした。小学生の遠足としてちょっとした山登り感が味わえるほどの高さと距離にある山だ。小学2年の息子の足なら、頑張れば何とか登りきり、降りられるほどの山であり、僕自身も土地勘があるので安全だと判断したわけだ。


山の入口まで歩く間も、それほど会話は無かったと思う。坂道も、二人で黙々と登った。話すにしても、「虫が多いからスプレーもう一回しとこうか」「そこ滑りそうだから気をつけな」「お父さんは遠足でここを登ったの?」そんな程度の会話だったと記憶している。息子にとっては初めて入る山道。息子のペースに合わせるようにして、ゆっくりと登っていった。休憩も何度か入れた。こまめに水分を取り、虫さされに注意して進んだ。


3時間ほど登った頃、頂上近くに着いた。頂上で二人でオニギリを食べ、お菓子を食べた。風が心地よかった。
さあ、降りるぞ、と息子に声をかけ、登り口とは違う道を降りた。息子がはしゃぎ過ぎないように注意しながら、ゆっくりと降りた。1〜2時間でふもとに到着し、医薬量販店でアイスクリームを買って二人で食べた。店の前の、少し日陰になっているところに二人で座り、しばらく自分たちが登った山を見ていた。


そして数ヶ月が経った。



ある日、僕の母が息子を習い事へ送っていく時に、車内でポロリとこんなことを言った。
「おばあちゃんは山に行ったことがある?」
「僕は行ったことがあるよ」
「前に僕が事件を起こしちゃったときだよ」
「もしかしたらお父さんが怒っていて、山に置いていかれるのかって思って、一人で帰れるかなってドキドキしてたんだ」
「でも、お父さんは優しくしてくれて、一緒に降りてきたんだ」
「僕、ずっと忘れないと思う」
涙もろい僕の母は、孫のこの言葉にグッときたらしい。



この事実が、果たして良かったのかどうなのか、まだ分からない。ただ、息子にとってその思い出が、とても印象深い思い出だったことは間違いない。誰かに叱られた記憶だけではなくて、全く違う未知の体験も一緒に、彼の心に深く残ったのだろう。


父親としてまだまだ未熟な僕だけれど、少なくともあの時、自分の心に殉じて良かったと思っている。

それは言わば灯台のようなもの

年明け早々に気持ちが沈んで、何とか回復をと思っていたら突然の大雪。
頭のなかに非常事態宣言が発令され、ホルモンなのか脳内麻薬物質なのかがチュルルッと分泌されて寝るや寝ないやの雪との格闘の日々を経て、先週からは突然の腰痛に侵されてまた床に伏せる日々を送り、絶え間なき嫁さんからの介護と接骨院の先生の治療により何とか回復したと言える程度に。


怒涛の年初である。とは言えもう3月も初旬から中旬になろうとしているのだけれど、また雪が降ってきたり、子どもやら消費増税やらのイベントが立て続けに入ってきて、目の回る毎日がまるでドラえもんひみつ道具「タイムライト」の如く怒涛のように流れている。そんな中、「やりたいことの半分だけやってみたら」という嫁さんの至言に従い、結構ゆとりをもって仕事をしている。やりたいときにやり、やりたく無いときにやらない。よくそんな身分で暮らせるなという話はごもっとも。例えばふと午前休にしてみたり、それができる環境である幸せは重々噛み締めているつもりだ。
とはいえ時間はゴウゴウと流れているわけで、こうして気持ちが乗ったときには夜にもPCをカタカタ叩いたりしてみるわけだ。


色々な人が助言をくれる。ありがたいことだ。上述の嫁さんの至言もそう。
「あまり深く考えるな」
「適当でいいんだってば」
「◯◯さんみたいに遊んでみれば?(笑)」
「一緒にどこか行こうぜ」
「僕に任せて休んでください」
正直嬉しい。電話で、Facebookで、直接面と向かって、そういって僕を気遣ってくれる。幸せなんだなあ、と思う。


そして、そういった助言も踏まえつつ、気づいたことがある。僕にとって最も有効な改善策、というかその方針である。
それは、言葉にすると陳腐だけれど、「遠くを夢見よう」ということだ。


実は、僕の特技はグラウンドに真っ直ぐに線を引くことで。関係無さそうであると思うのだけれど、よくサッカーなんかだとグラウンドに線を引くことがあって。それが足だったり石灰ローラーだったりするんだけれど、とにかくそのときに真っ直ぐに線を引けるというのが僕のささやかな自慢だったのだ。
なんてことはない。真下を見て真っ直ぐ引こうとしても線は曲がってしまう。遠くの一点を見続けて、そこに向かって線を引くと真っ直ぐ引けるのだった。僕がスパイクの裏で引いた線はきれいな直線を描いた。余談だけど黒板に円を書くのも得意だ。今は自信がないけれど、ノートに真円を書くのもとても得意だった。数学を志すものとしてこれは大きな武器になる。



ともかく、僕は遠くを見て、もしかしたら憧憬のようなものを見て、ずっと歩いてきたのだ。目の前の悩み・不満・悲しみを、遠くの夢のようなものを見続けて、その遥かな高みに比べれば大したことじゃないと、自分を鼓舞し続けてきたのだった。そう、いつの間にか僕は、そんな遥か遠くの夢幻を見失っていたのだった。誰かに話してしまうと陳腐で恥ずかしい、でも僕にとっては本当に夢の様な未来の自分像なのだ。
もう一度それを取り戻す。それは、少しだけ戻ってみることも有効かも知れない。そして、もう少し幼くなってしまうことも必要かも知れない。


で、結論としては、僕はまたそんな遠くの夢幻を取り戻しつつある。復活は間近に迫っている。だからもう少し、今日はもう少しだけお酒を飲もうかな。ういぃぃ。

観測史上最大の大雪と、インフルエンザ

大雪で配達に大幅な遅れが発生。あるいはお届けできず翌日や翌々日に配達となってしまったお宅も多数あり、大変ご迷惑をお掛けいたしました。申し訳ありませんでした。


まず国道4号線が大渋滞。しかも待てばいつかは進むというものでは無く、全く動かないという、前代未聞の渋滞であった。迂回路は大雪により進めない状況。無理に進んでも車がスタックしてしまう。迂回路以外にも除雪が進まなければ車が入れない箇所が多く、そういったところは車を停めて歩くか、除雪を待って配達するしかない。しかし、白石市内の多くの人が経験したように、除雪が一向に進まない。待てど暮らせど除雪車はやってこず、住民自らの手で何とか歩道を確保するのが精一杯の状況であった。


なので、できる限り徒歩での配達を余儀なくされる。もちろん車を使うのに比べて著しく時間がかかる。しかも間が悪いことに社内にインフルエンザが流行してしまって、朝作業スタッフの実に3分の1が欠勤という状況だったもので、人員が少なかったのだ。新聞が店に到着するのも大幅に遅れたため、日中の仕事の都合で配達できないスタッフも多く、またこの雪で自宅から出られない、あるいは出てもすぐスタックしてしまったスタッフも多数。残ったメンバーで懸命に歩いて配達したが、それも限界があった。


3年前の震災とはまた状況は違うけれども、タイプの違った大災害であったことは確か。こういった非常事態こそ、臨機応変が求められるんだなあと心底思った。
まだまだ雪が残ってる。早く雪が溶けるといいなあ。そしてもう降らないで欲しい(切実)