Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

急いでゆっくり歩けば青空


朝から元気に息子と歩く。家を出発するときには、既に登園時刻の9時を過ぎていて、「急がないといけない」というか「歩いてていいんでしょうか」状態だった。息子は息子で道中"猫じゃらし"を摘み取り、あるいは木の実を踏みつけ、色違いのブロックを避けて歩き、全くもって非効率な歩き方だった。僕はといえば、治りかけの腰痛を抱え、腰の養生という理由で寝てばかりいたツケは腹や足に贅肉として残っており、少し歩いただけで首筋にジワリと汗をかくという始末。どう見ても急いでいる風には見えない、のんびり親子の朝散歩状態であった。
何より、すっかり秋の匂いに包まれた9月の空は透き通るように青く、呑気な二人の気持ちを更におおらかにさせてしまっていた。草木は来るべき冬に向けて準備を初め、実や葉を落とし始めている。震災でダメージを受けた家屋の取り壊しが本格化していて、ところどころ廃材やゴミが暫定的な雰囲気を持って佇んでいた。


息子は元気だ。手を握ると、すぐに振り払って草をいじり、歩道橋の手すりをいじり、走りまわる。しばらく歩いていると、次は息子のほうから手をつないでくる。しっかり握ったかと思うと程なくモジモジし始めて、また振り払っては興味の赴くままにその手を使う。親と手を繋ぐことによって得られる安心感や依存性から卒業しかけているのだろう。若干気恥ずかしさも湧いているかも知れない。そういう年頃だ。僕から離れ、自分の倫理観と安全感覚を持って歩いて欲しい。幾分寂しくもあるけれど、そうして少しずつ思春期に近づいていく。


駅前の横断歩道を渡る。僕が少年時代を過ごした駅前を、息子の手を握って歩くのは何とも不思議な気持ちだ。あれからずいぶんと景色は変わってしまっている。無かったモノがあり、あったモノが無くなり、変わったモノと、全く変わっていないモノがある。息子は何を見ているのだろう。30年後には、今の景色に無かったモノができ、あったモノが無くなり、変わったモノも、変わらないモノもあるのだろう。その息子の記憶の片隅に、腰痛をこらえて歩く汗だくの父親の姿や、握り返した父親の手の感覚が残るのかも知れないな、とそっと思ってみる。


それにしてもキレイな青空だった。