Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

ボトムアップとトップダウン

「学ぶ」にあたって、大きく二通りのやり方がある。

まずボトムアップ式は、文字通り基礎から積み上げる方式で、義務教育がまさにこれにあたる。何の役に立つか分からないけれどひとまず広く浅く、様々な分野の科学的理論を積み上げていく。中には得意・不得意や、好き・嫌いという分野ができてきて、それが進路のいち判断材料になっていく。やってみなければ、得意か不得意か、あるいは好きか嫌いかは分からないものであって、そういった意味では何にせよやらせる、というのは理解できなくもない。

しかし、これは非常に忍耐を必要とやり方である。何しろ、この知識がどういったものに繋がるかがほとんどイメージできずに取り組む必要がある。自分が将来、何かを判断する際に必要でないものも多い。

もう一つはトップダウン式で、現在興味のある、または必要だと思う分野を掘り下げるやり方だ。例えば新型コロナウイルスについて学ぼうとすれば、ウイルスや人体に関する生物学的な知識、アルコールや次亜塩素酸ナトリウムといった化学的な知識、休業補償や経済損失といった、法学的・経済学的知識を必然的に学ぶことになる。

このやり方だと、今学ぼうとする知識がどこに繋がるかがはっきり分かる。従って学ぶモチベーションが持続するという意味では非常にメリットがある。しかし落とし穴もあって、ともすればエセ科学だとかトンデモな理論を信じてしまう危険性がある。例えば東日本大震災の後、放射線について不安視する声があり、多くの人々が手探りで放射線について学び始めた。特定のものを指して申し訳ないのだが、その際にEM菌というものが流行し始めた。このEM菌は放射線を無効化するので、摂取したり散布したりすることで被曝のリスクを低減できる、というものだった。

これは全くの非科学的な理論であることは自明である。放射線は原子内部の中性子や電子といったサイズ(nm:ナノメートル)の話であって、菌や細胞といったサイズ(μm:マイクロメートル)の話とは全く異なる。少しでも化学的・生物学的な知識があればすぐ分かる話なのだ。

 

ボトムアップトップダウンのどちらかに優劣があるわけでもなく、どちらにもメリットとデメリットがあり、どちらも必要不可欠なものである。要するに、バランスが大事ということだ。受験受験、とボトムアップを徹底するのもバランスが悪いし、やれ震災だ放射線だウイルスだと言って目についたトンデモ理論に飛びつくのもバランスが悪い。学ぶ人の興味・関心の分野に対して、基礎的な知識としてどういったものが必要なのか。あるいは今学ぼうとする基礎的な知識が、今現在どういった分野に繋がっているのか。教育者は、学ぶ人に対し、まず最優先でそれを導くべきではないだろうか。

最悪なのは、学生時代勉強に一切興味が沸かず基礎的な知識をほとんど得ないで過ごし、大人になって何らかの緊急事態になって慌てて知識を得ようとし、心無い人間に騙されてしまうことだ。

 

現在の欧米を見ていると、先進国と言われる国においても、こうしたバランスがうまく取れているとは言い難いということが良く分かる。

 

日本においては、ボトムアップ式に大きく力を入れてきた。これが日本人特有の同調圧力と相乗効果を生み、高度経済成長期において必要な、いわゆる中間層を多く生み出すことになった。しかしながら、こうしたボトムアップ重視の教育システムではブレイクスルーを起こせる人間は生まれにくく、従って日本の成長は頭打ちになってしまった。そこでトップダウン式を取り入れようとしているのだが、そもそも教員がボトムアップ式で成功した人間であるから、なかなかすぐにはトップダウン式を取り入れることができない。個性を重視、と言葉では言っても、やっぱりみんな同じ、同程度、を目指す教育システムは変わらないのだ。

しかし、新型コロナウイルスパンデミックはこれを著しく変化させる可能性がある。教育界においては、これはチャンスと考えるべきだ。今こそブレイクスルーを起こせるような人間を生み出す新しい教育システムに変化すべきである。

 

さて、教育についてはここまでにしよう。次回からは実際にあるトピックを取り上げて、掘り下げてみたいと思う。

判断材料をまとめる②

(前回からの続き)

特に、他者に判断をさせるための判断材料を与える、すなわち説得するということは、相手に理解してもらいかつ納得してもらう必要がある。世の中には色々な相手がいるわけで、その理解度や納得しやすさなどが千差万別ではあるが、一般的な人間にとって理解しやすく、納得しやすいような話し方、内容というものがある。

その一つが、科学であると思う。

この世の中には普遍的なルールがある。それが物理学だったり、宗教学だったり、言語学だったりするのだが、ともかく普遍的なルールが存在している、ということが、人類にとって大きな共通認識だと思う。それが、いわゆる科学である。

すなわち、私たちが学び、あるいは研究する科学というものが、人類のほとんどが共通認識している普遍的な世の中のルールであり、そのルールに従って構築された判断材料(理論)に従って人間のほとんどは都度判断し、進むべき道を決める。その道というのは、自分が死からできるだけ遠ざかり、幸せな人生を送ることができるであろう道である。

長くなったけれども、つまりは科学を学ぶことが、人生の選択時に必要なことである、ということを言いたい。

 

さて、ではそうした科学を学ぶということを、どう始めたら良いのだろうか。

次はボトムアップ式とトップダウン式の学び方について解説してみたい。

判断材料をまとめる①

さて、学ぶことは、人生において色々と判断するための判断材料を集めること、と述べた。試しに、その具体例を挙げてみよう。

誰しも、自分でも結構高額だと思う製品を、親のお金で買ってもらったことがあると思う。ゲームであったりスマートフォンであったり、あるいはバイクや学費だったりするだろう。今、あなたは20歳である。あなたは車が欲しいと思っており、自分が働いて貯金した額を合わせても30万円ほど足りない。ここは親にお金を借り、返済は無期限の利息なしとしたい。あなたは、どうやって親を説得するだろうか。つまりは、親に30万円を出させるという判断材料を与えるということだ。

あなたは、色々と説得するための情報を集めるに違いない。通勤通学時の必要性、友人との交流 、将来の可能性、返済の手段や時期、などなど。そうやって情報を集め、まとめ、組み立てて親に話し、納得してもらおうとする。ダメだった場合は仕切り直しだ。また新たな情報を探し求め、あるいは既に集めていた情報をもう一度まとめ、組み立て直す。

あるいはその情報の中に、日本における20歳の車所持率を入れるかも知れない。あるいは地域社会における車の必要性を論じた新聞や書籍の一節を持ち出すかも知れない。また、消費者金融から借りた場合の利息の大きさとそのリスクについて話すかも知れない。日常的に運転する距離と燃費から月々のガソリン代を計算し、現在の収入内で負担可能であることを挙げるかも知れない。

どれも、有効な説得材料となり得る情報である。そしてそれらは、国語、社会、理科、数学などの基礎的な力があった方が、より効果的に情報を得、まとめ、組み立てることができる。

特に、この「様々な情報」から、車を得るという「問題の解答」を導くプロセスそのものが、問題を解くという学習方法の具現化であり、それがより特化したものが、算数・数学における問題解答の基本的なプロセスである。すなわち数学とは、与えられた問題に対し、加減乗除などの基礎的な公理・定理という情報をまとめ、組み立てることでその解答を得るということなのだ。(つづく)

「学ぶ」ということについて

人類は長い時間をかけて科学・文学・芸術・宗教などの学問を発達させた。これほどまでに発達させたそのモチベーションは何だったのか。「死への恐怖」あるいは「死の恐怖の克服」がその大きな目的の一つだったのだろう。

  • 食料を安定して得るには
  • 外傷や疫病から身を守り治癒させるには
  • 災害から命や住居を守るには
  • 周囲の人間と協力するには
  • 心を落ち着かせて冷静に対応するには

それらのどれもが、死を遠ざけ、一日でも多く生きることに繋がっている。

そしてもっと詳しく考えれば、学ぶことは

人生において訪れる様々な選択肢のうち、なるべく死のリスクを避け、自分が幸福に生きる道を選ぶために必要な知識・判断材料を得ること

と言い換えることができるだろう。

例えば、二次方程式が多くの人間の人生において役に立たないものであることは間違いない。しかし、二次方程式を含めた複雑な多元方程式が物理的な原理の解明に使われており、そうした物理原理を用いて様々な電子機器・工業機械が作られていることが分かっていれば、自分がそうしたものづくりの道を志すかどうかの判断材料になる可能性は十分にある。

小説「坊っちゃん」の一節を読み解くことも人生において役に立つことは少ない。しかし、夏目漱石を含めた小説家がどのような感情をどういった文章に乗せて記述し、それを読んでどう感じるかをある程度知っていれば、迷ったとき、悩んでいるとき、落ち込んでいるときに、そうした小説を読んでみるかどうかの判断材料になる。

アサガオの生育法、油絵の書き方、ポートボールのルール、聖書の一節、どれも、何かしらの判断材料になり得る。決して、無駄な知識とは言えない。

 

かと言って、現在の学校教育を完全に肯定することはできない。できないが、根底から無駄だと決めつけるのも良くない。上記の通り、判断材料としての知識も必要ではあるからだ。

教育は、できる限り子ども一人ひとりの個性を尊重し、その子にあったペースで、自分の学びたい分野の知識・経験を伸ばすことができ、苦手な分野の知識・経験を上記のような判断時に必要な分だけ補えるのが理想的だ。そこに近づけようと悪戦苦闘としている人がいることも知っている。だが、改革するには長い時間が必要だろう。

子ども一人ひとりに向き合い、個性に応じて臨機応変に対応するには、教員の数が圧倒的に足りない。できる限り、親がその部分を補うべきだと、僕は思う。客観性を保持しつつ、自らの子どもの個性に応じた学習のサポートができるような親は少ないかも知れない。なぜなら、自分もそうした体験が少ないからである。

そこで、こうした状況において、子どもときちんと向き合うための判断材料、すなわち「親のための学び」が必要だと考えている。このブログを使って、いくつかそうした実験的な文章を記述してみたい。願わくば、何らかの効果的な形にまで昇華できればと思いっている。

「放射能」について②

チェルノブイリ原発事故が発生した際、プルトニウムを含む大量の放射性物質が巻き上がった。それは大気の動きに伴って世界中に拡散された。最もその影響が大きかったとされているのは、ソビエト連邦白ロシアソビエト社会主義共和国、現ベラルーシである。この地域では特に幼児において放射線の影響と思われる甲状腺がんが多数診断された。これには、放射性物質とともに牧草を摂取した乳牛から放射性物質が濃縮された形でミルクが産出されたとか、地域的・民族的に放射性物質を喉に吸着しやすい状態であったとか、ソビエト政府からの発表や対策についての通知が遅れたということもあったようだ。

そしてそのプルトニウムは日本にも飛散している。当時計測された線量値を見ると、確かに通常よりも高い放射線量を示している。しかしながら、このときに日本政府が、あるいは放射性物質の飛散に気づいた学術研究機関などが、報道機関が、この事実について大きく取り上げてはいない。作物の線量測定や出荷制限なども行われていない。まして、放射性物質の飛散により国民に何らかの身体的異常があったかどうかなど、調査が行われたかどうかも不明である。

当時の線量と、震災後の線量についての比較は難しく、どちらの方が人間の体に影響があるかといった議論ができる情報は持ち合わせていない。しかし、チェルノブイリの時の日本の状況から比較すると、東日本大震災後の放射能に対する反応はやや過剰に見える。

これには、インターネットやスマートフォンの普及による情報の拡散が影響している。不安を煽るような記事、東海村JCO臨界事故の際のショッキングな画像、そういった情報がどんどんと押し寄せてくる。どれがデマで、どれが真実で、どれが誇張した情報なのかを判断する暇も与えてくれない。そしてその情報に影響された結果、自分がまたそのような情報の発信者となってしまう。

放射性物質による被曝への対策は必要である。摂取する作物、普段過ごす場所、ホットスポットの把握、除染の必要性と効果、それは必要な知識だ。むしろこれまで無知だったのがおかしいとも言える。

そして、放射性物質への忌避感というものに個人差があることも理解すべきであろう。ある人が、このぐらいなら大丈夫、と思っていても、隣の人はそう思っていないかも知れない。一番避けるべきなのは、自分のそういった感覚を他人に押し付けたり、それがスタンダードであると決めつけることだ。

しかし、だからこそ、特に他人に見える形での過剰な反応は避けるべきだと考える。原発周辺の帰宅困難区域に指定された場所以外の場所では、特に冷静な対応が必要だ。どうしても放射能への恐怖感が拭えず、転居することを選ぶことも仕方ないことだろう。しかし、転居には多くの方が関係せざるを得ない。仕事、子ども、親戚、近所。その中には、その転居に賛同する人もいれば、理解できない人もいる。少なからず迷惑を受ける人もいる。それは仕方がない。仕方がないのだが、なるべく影響が無い形をとろうと努めるべきだろうとは思う。

「放射能」について①

東日本大震災における福島第一原子力発電所の事故は、日本を大きく変えたと言える。反原発脱原発原発推進派に分かれての議論は、どちらが正しいとか以前に、日本人にとって「エネルギーとは」「原発とは」「放射能とは」「故郷を失うとは」といったことを考えさせるきっかけとなった。これまで、そういった問題はどちらかと言えば二の次であって、どこかで誰かがうまくやってるだろう的な楽観的立場であったことは間違いないわけだ。それが、実は我々全員が当事者であることにようやく気づいたわけだ。

日本人にとって広島・長崎への原子爆弾投下以降、「放射能」に対する忌避感は半端ない。しかしそれは、「放射能という見えない毒のようなものが体に入ると毛が抜けたり鼻血が出たりして死ぬ」という大雑把かつ偏った認識でしかなかった。しかし実際には、放射能というのは放射性物質α線β線γ線といった放射線を放ちながら崩壊して安定的な物質になる性質を表す用語であり、直接人体に影響があるのは放射線、そして放射線を出す物質を放射性物質と呼ぶ。放射性物質の崩壊には半減期と呼ばれる期間があり、放射線を出して崩壊する確率から、安定的な物質との割合が半分になるまでの時間を指す。

東日本大震災で排出された放射性物質のうち主なものは放射性セシウムセシウム137とセシウム134であり、それぞれ半減期は30年と2年である。セシウム137は30年でおよそ半分に、セシウム134は2年で半分になるということである。したがってセシウム134に関して言えば、東日本大震災から6年が経てばおよそ1/8にまで放射性物質は減っているということになる。

また、放射線による人体への影響はシーベルト(Sv)という単位で計測される。これは以前はグレイ(Gy)という単位が用いられていた。1986年に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故では、東ヨーロッパだけではなく日本にも放射性物質が飛来した。その際にはグレイ(Gy)という単位で人体への影響を観測している。

イスラム教の論理 -飯山陽-

現代の世界情勢を理解するにあたり、イスラム教とその歴史についてきちんと学ばなければならない、と思って、この本を現在読んでいます。

イスラム教の論理(新潮新書)」飯山陽 

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86%EF%BC%88%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8%EF%BC%89-%E9%A3%AF%E5%B1%B1%E9%99%BD-ebook/dp/B079N19T66 

まだ半分くらいしか読んでいないけれど、これを読むとIS(イスラム国)が本来のイスラム教として「正しい」行為を行っているということが分かる。つまりイスラム教というのはこういった行為を「正しい」として生まれた宗教であり、長い歴史の間それを元にして世界に帝国を次々と生み出した宗教であるということだ。

 

イスラム教やイスラム世界に関しては池内恵さんがとても分かりやすく色々と解説してくれていて、この本を読むきっかけになったのも池内恵さんの情報からだ。

池内恵

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