Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

「学ぶ」ということについて

人類は長い時間をかけて科学・文学・芸術・宗教などの学問を発達させた。これほどまでに発達させたそのモチベーションは何だったのか。「死への恐怖」あるいは「死の恐怖の克服」がその大きな目的の一つだったのだろう。

  • 食料を安定して得るには
  • 外傷や疫病から身を守り治癒させるには
  • 災害から命や住居を守るには
  • 周囲の人間と協力するには
  • 心を落ち着かせて冷静に対応するには

それらのどれもが、死を遠ざけ、一日でも多く生きることに繋がっている。

そしてもっと詳しく考えれば、学ぶことは

人生において訪れる様々な選択肢のうち、なるべく死のリスクを避け、自分が幸福に生きる道を選ぶために必要な知識・判断材料を得ること

と言い換えることができるだろう。

例えば、二次方程式が多くの人間の人生において役に立たないものであることは間違いない。しかし、二次方程式を含めた複雑な多元方程式が物理的な原理の解明に使われており、そうした物理原理を用いて様々な電子機器・工業機械が作られていることが分かっていれば、自分がそうしたものづくりの道を志すかどうかの判断材料になる可能性は十分にある。

小説「坊っちゃん」の一節を読み解くことも人生において役に立つことは少ない。しかし、夏目漱石を含めた小説家がどのような感情をどういった文章に乗せて記述し、それを読んでどう感じるかをある程度知っていれば、迷ったとき、悩んでいるとき、落ち込んでいるときに、そうした小説を読んでみるかどうかの判断材料になる。

アサガオの生育法、油絵の書き方、ポートボールのルール、聖書の一節、どれも、何かしらの判断材料になり得る。決して、無駄な知識とは言えない。

 

かと言って、現在の学校教育を完全に肯定することはできない。できないが、根底から無駄だと決めつけるのも良くない。上記の通り、判断材料としての知識も必要ではあるからだ。

教育は、できる限り子ども一人ひとりの個性を尊重し、その子にあったペースで、自分の学びたい分野の知識・経験を伸ばすことができ、苦手な分野の知識・経験を上記のような判断時に必要な分だけ補えるのが理想的だ。そこに近づけようと悪戦苦闘としている人がいることも知っている。だが、改革するには長い時間が必要だろう。

子ども一人ひとりに向き合い、個性に応じて臨機応変に対応するには、教員の数が圧倒的に足りない。できる限り、親がその部分を補うべきだと、僕は思う。客観性を保持しつつ、自らの子どもの個性に応じた学習のサポートができるような親は少ないかも知れない。なぜなら、自分もそうした体験が少ないからである。

そこで、こうした状況において、子どもときちんと向き合うための判断材料、すなわち「親のための学び」が必要だと考えている。このブログを使って、いくつかそうした実験的な文章を記述してみたい。願わくば、何らかの効果的な形にまで昇華できればと思いっている。