Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

拝金バガボンド

ヘルニアからくる左足臀部から大腿部の痛みは、一昨日に比べると格段に痛みが治まってきている。動いたときに耐えるべき痛みのレベルが下がり、痛みの発生する足と腰の角度も幾分広がってきていて、可動範囲が飛躍的に増えてきた。
そこで、今日は午前中職場に行ってみた。色々と処理しなくてはならない雑務が溜まっていて、しかも印刷やら切断やらと職場でないとできない仕事であり、少しずつでも進めたかったからだ。かといって無理もできず、11時過ぎにも自宅へ戻ってきてしまった。まあ、じっくり。じっくりね。


ところで、昨日「拝金」(堀江貴文著)を読んだ。書評するつもりもないし、ブクログといった意味も特に無いのだが、感じたことをつらつらと記録しておこうと思う。

(長いので時間が無い方は読まなくて良いと思います。)


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読んで率直に思ったことは、ああ、この人(堀江氏)はホントに頭がイイんだな、切れるんだな、ということだった。ただ、何というかこれまでに僕が読んできた高尚な(「拝金」が低俗ということではない)小説から感じてきたものとは全く異なるスゴさだった。


「拝金」には、余計な描写が一切無い。全て必要な情報が簡潔明瞭な文章で流れるように記述されている。読む人が簡単に想像できるような部分はバッサリと省略され、いくらか現代的なドラマ風の演出が入ったり読む人にある程度の前提知識を必要とするウィットも含まれているものの、必要最小限というか、面倒なところが全く無い。言ってみれば、推理小説や(僕はあまり推理小説を読まないので、そういう印象ということだが)、とても質のいいビジネス文書を読んでいるような気分だ。
こういう文には、何も言えない。何か指摘しようとしても、全て理詰めで裏打ちされていて、何もかも論破されるのが目に見えている。完全な文章だ。だからスゴイ。そして、切れる。そういう印象を持った。


一方、僕がこれまで触れてきた、いわゆる現代文学的な小説というのは、ストーリーはストーリーとして大切ではあるが、もっと大切なのは物語が紡がれる世界観であり、それを描写するためには、ある意味で冗長な文を必要としてしまう。ストーリー的にはほんの数分程度の進行に、何行も何ページもかけて描写することもある。そうしないと、筆者が創りだした世界を説明できないからだ。
こういう文には、何とでも言える。しかし、何か指摘しようとしても、全く無駄なのだ。何故なら、「間違っている」と指摘したところで、それは筆者の創りだした世界のことであり、僕が言える範囲のことではない。筆者が「いや、この世界は間違ってないんです」と言えばそれで終わり。論破ということではなくて、そもそも主観的な世界であるから、客観的な分析はそれほど意味が無いのだ。
もちろん、優れている文章というものはあって、誰にも思いつかないような、あるいは郷愁や悲哀などを感じさせるような、そんな世界観を描写する素敵な小説というものはある。だが、「良い」と感じるかどうかはあくまで読者の主観であって、当人が良いと思えばそれで良いのだ。


もう一度「拝金」に戻る。この「拝金」は、全く新しい世界観を築いていない。そもそも、築こうとしてない。今僕たちが忙しく生きている、この俗世におけるある滑稽なエピソードをたんたんと、完結に綴っただけだ。


どちらが優れているか、というのは全くもってナンセンスだと思う。
思い返してみると、僕が学生時代に会った【本好き】の人の多くは、この【高尚な】小説意外小説として認めていなかったように思う。赤川次郎などの世俗的な世界を描いた小説は、とても価値が低いものとされていたような気がする。それは、単なるブランド指向では無かったのか。


この「拝金」のように、あくまで世俗的な世界を描いていても、究極までソリッドに文章力と構成力とストーリーの緻密さやオリジナリティがあれば、読む人に大して大きな影響を与えることができるし、それは独自の世界観を築きアーティスティックな雰囲気を醸し出す【高尚な】小説と同じ目線で評価されるべきものではないような気がするのだ。


要するに、カンディンスキー井上雄彦の絵を比べても意味が無いよね、ってことで、


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ご覧の通り、その文章力において全く堀江氏に及ばないことを自覚するのであった。