Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

にんげんコーポレーション

いよいよ明後日となった従業員全体会向けの資料は何とか完成。
いや、もう少しクオリティを上げようと思えば上げられる要素は多分にある。しかし、腰の状態と日数を考えて、これ以上手を加えるのもまた難しいだろうと判断したのだった。こういうのを妥協という。打算が妥協を生み、そして堕落する。打算-妥協-堕落の3D。これを考えた人は天才である。


会社というものを突き詰めて考えると、どうしても「人」に行き着いてしまう。「人」というのは、いわゆるヒューマンビーイングを指すわけではなくて、会社自体が感情を持ち、傷付き、ときに自信を失い、そして自らの変革によって前を目指し、成果を自信に変え、新たなるステップを踏み出す、とても人間らしい「人」そのもののような気がしてくるのだった。


僕自身にもたくさんの感情がある。くだらない幼稚な感情の裏側に、純粋で精錬な感情がある。ずるがしこい感情の裏側に、優しい感情がある。それらが互いに影響し合い、時には相反する感情でさえも手を結び、僕という人格を僕たらしめているのである。それは、たくさんの人間がそれぞれに違った感情を持ち、ときに相反する性格の人間が手を携えて目的に向かっていく様に酷似しているように思えるときがあるのだ。


会社を経営するということは、ある人格をその上位の視点から俯瞰するようなものだ。様々な思いが交錯する様を眺め、それらを生かしながら全体として目標へ向かうように最適化することこそが、経営者の役割ではないかと感じることがある。きっと、一部的を得ているのだろう。もちろん、それだけで経営の何たるかが語れるわけでは無いのだ。


走れるか。それを自らに問う。
幾多の感情を自らの背中に刺して、それらを牽引し崇高な理念へ向けて走れるか。
刺さった感情により自らの血を流しても、僕は前を向いて笑っていられるだろうか。