Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

目指せ中庸のエキスパート

意見の対立というのはよくあることで、人間が千差万別である以上、むしろ対立しない方が不自然と言える。しかし組織とかチームとか国という単位で何かを決定しなければならないとき、対立していては定まらないことがあって、民主主義的には有権者による多数決で文句なしよ、というのが世界的なルールなのだ。
但し、決定までは幾つかのプロセスを経る必要があって、対立による議論というのはその中でも特に重要な位置を占める。議論することによって、見えてなかったものが見えてくることもあるし、一見対立していた意見が深いところで同じ課題から出発していることに気づいたり、あるいは双方が妥協できる中間案を見いだせることもある。


ここで注意すべきなのは、この「議論することで対立構造そのものをレベルアップする」ということを双方が意識できているかということだ。


往々にして僕らは、自分と異なる意見を持つ相手に対して、その考えをねじ伏せようとしてしまう。僕が正しい、あなたは正しくない、だからあなたは僕に賛同すべきである、と。しかし、残念ながらその目的は達成されることはほとんど無い。あなたが相手の意見に屈しないように、相手もあなたの意見に屈することは無い。意見の対立はエスカレートし、本来の議論とは別なところで相手を非難し、中傷し、時には攻撃してしまう。それは議論ではなく、もはや戦争である。


僕は中学の卒業文集にこう書いた。
「これから僕も大人になっていく。僕らが差別や考え方の違いをなくし、そして、住みよい地球をつくっていかなければいけないと思う。」
"違いをなくす"という表現だけ少し気がかりだが、今の僕が思っていることと何ら変わらない。議論の行く末を戦争に持っていくのではなく、お互いを理解し合い妥協点を見出すことに向けなければ、人類は滅亡してしまう。要するに、中庸に向かうのだ。


原発の再稼働をしなければ、本当に経済が破綻するのか?原発の再稼働さえしなければ、僕らは本当に放射能の恐怖に脅かされずに暮らせるのか?
お互いを非難しても仕方がない。議論すべきなのだ。