Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

僕は単純なボールでも結構トラップミスしてました(汗)

アジアカップAFC Asian Cup Qatar 2011)で日本が優勝した。はっきり言って、とても嬉しい。
しかし、残念ながらリアルタイムでは1試合どころか1分も見なかった。子どもを寝かしつけていたり、体調を崩している家族の状態を鑑みて睡眠時間を確保したり、新聞の到着を待って事務所で待機していたりしていたからだ。小学から高校までサッカーをやっていた者としては充分失格に値する。ごめんなさい。
それでも、興味と感心はヒタヒタと全身を覆い、夜な夜なYoutubeにアップされた試合の模様をiPhoneから延々観させてもらった。ゴールシーンを中心としたハイライトシーンばかりだが、観れば観るほど日本のサッカーは本当に変わったんだな、と思えてくる。

僕らが見た日本代表には、確固としたエースがいた。それは三浦和良であり、中田英寿であり、中村俊輔だった。そして、それ以外の選手は、かなり厳しい言い方をすれば、いかにしてそのエースをサポートし、エースの力を存分に発揮させるか、の存在だった。確かに選ばれる選手はJリーグのトップ選手として活躍している選手だったけれど、例えば中山雅史が登場する前は、カズと並ぶFWが武田だろうが黒崎だろうがあまり関係がなかった。
例えば中村俊輔に、視聴者が喜ぶような芸術的なアシストをさせるために、何人の選手が身を削ったことだろう。俊輔がパスの出しどころに窮して他の選手にボールを預けたときのガッカリ感といったら。独創性溢れるプレーを期待できる選手は限られていた。要するに、世界に通用するような選手が少なかったということだ。実は、もっと言ってしまえば、「世界に通用する」と言われていた中心選手の中で、欧州のトップチームで結果を残した選手が何人いただろう。その程度だったということだ。
こんな状態では、作戦などあったものじゃない。相手に合わせる前に、自分達の強さを確立するのがまず大問題だ。中心的選手を抑えられたらその時点で終わりだからだ。日本代表監督も悩んだことだろう。

しかし、昨年のワールドカップや今回のアジアカップを見ていると、選手層の厚みが全く違う。もちろん、香川や本田、長谷部といった比較的中心的な選手はいるが、他の選手が見劣りすることはない。松井、遠藤、長友、トゥーリオ、今野、岡崎、その他、矢野貴章とかまだまだ可能性充分な選手が続々いる。これ!というシンボル的中心的神様仏様みたいな存在がいないというのは、単にそういったレベルの選手がいないのではなくて、以前ならそういった存在になっていたようなレベルの選手が沢山いるということなのだ。
こうなると、試合の組み立て方や各選手の役割というのがまるで違ってくる。「いかに○○選手をフリーにするか」ではなく、「相対的な相手のウィークポイントを狙うにはどうしたら良いか」になる。これこそ戦術であり作戦なのだ。ザッケローニのように、選手の配置に長ける監督もやりやすいだろう。

Jリーグが発足したときに、川淵チェアマンが、あるいは金田喜稔などの解説者が、口を酸っぱくして言っていた。「日本サッカーのレベルの底上げが必要だ」そうかそうか。底上げとはこういうことなんだ、と、やっと腹に落ちたような気がする。今の日本代表に、サイドチェンジのロングパスをトラップミスする選手はいない。僕らの頃と比べて、小学生からレベルがはっきり上がっているはずだ。もしかしたら未就学児ですら。

そしてこれからが、日本がアジア民族の独自性を濃く持って世界に挑戦する段階になる。テクニックや独創性は南米に劣るかも知れない。パワーや高さは欧州に劣るかも知れない。だがおそらく、90分通してある程度の速さで走り続けられる「ラン」と、高度な「作戦」なら勝負できる。実はこれは、イチローが大リーグで、あるいは野球日本代表がWBCで見せたものと同じものだ。それは、毎日の地道な積み重ねという、勤勉さと真面目さによってしか得られないものだ。結局のところ、日本(アジア人)の売りというのはその勤勉さなのだ。
そういう意味で、その点に早くから気づいていた韓国は凄い。10年以上前から、「ラン」を重視して選手を育成している。さすがはアジアの虎だ。これからも、日本は韓国に負けまいと自らに磨きをかけるだろう。韓国も同じだ。良い意味で切磋琢磨してアジアを盛り上げて欲しい。

そんなわけで、毎週木曜に幼稚園でボールを蹴っている5歳の息子の将来を考えるたびに、「もしかしたら結構良い線まで行くんじゃないか」→「いやいやライバルも多いしそんなそんな」→「いやいやもしかすると」→「いやいやそんなそんな」と無限ループに陥っている僕は、ただの親バカです。