Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

おじいちゃんが残してくれたもの

父方の祖父は、マスオさん状態だった。
ウチの店は曽祖父により昭和2年に創業。しかし、末っ子の長男は家督を継がず、長女(つまり僕の祖母)の夫である祖父が屋号を変えて新聞業を継承することになった。

祖父は戦時中、樺太憲兵隊だった。当時、憲兵隊は国民を管理統制する立場にあり、大分嫌がられたらしい。戦後はロシアにて抑留捕虜となり、無事帰国することができた。

昔から大分変わり者だったらしい。僕が物心ついた頃、子どもの目から見ても変なところは沢山あった。
母屋の寝室ではなく、独り作業場の2階で寝起きしていた。いつも「ぷぅ ぷぅ」と唇から音を出す仕草が癖で、近くにいるととても気になった。ところ構わずオナラをし、古いバイクに乗ってはどこかに消えていった。ティッシュを何枚も重ねてポケットに入れ、時々どこかのページをめくって鼻をかむ。ヘルメットのことを「鉄かぶと」と言い、野菜のことを「やおや」と言う。夜になると酒ばかり飲む。いつも同じ、戦時中の話だ。コップの縁を下唇でなぞるのが癖で、なぞったあとに酒を一口飲み、またなぞってコップを置いた。祖父の後に風呂に入ると湯船に垢が浮いており、変なニオイがしてとても嫌だった。

子どもの頃の僕にとって、祖父はとても近寄りがたく、少し怖く、汚い、そんなイメージだったが、大人になるに従い祖父の無邪気さにどこか安心感を覚えるようになっていった。2000年10月に他界したとき、祖父の激動の人生と、貫いた純粋な気持ちを想い人目もはばからず泣いた。

祖父の死後、母からあるエピソードを聞いた。それは僕が三歳頃の話だった。
その頃、父はいつも帰りが遅く、事務員さんが帰宅した後の留守番は母の仕事だった。祖父は相変わらず酒を飲んでしまうし、祖母は腰が曲がって既に仕事から引退していたからだ。夜、新聞が届いていないという電話が入る。白石市深谷という、やや遠い地区だった。母は、助手席に僕を乗せてお客様のお宅へ新聞を届けに行った。暗い夜、しかも不慣れな場所だったため、時間がかかったらしい。やっと戻ると、店の前に祖父が立っていた。祖父は、なかなか帰ってこない母と僕を心配して、店の前に出ていたのだ。
祖父は、祖父自分と同じように「よその家」に入った僕の母を気遣い、不器用ではあったけれど祖父なりの愛情を母や僕に与えてくれていたのだ。

今では、小さい頃に嫌だと思っていた祖父の仕草や言葉が妙に温かく感じられる。それは、祖父の中に、夜に遠くへ出掛けた母と僕を待ちきれず外へ出てしまうような、温かい心を感じるからだ。そんな祖父の血を引いているかと思うと、とても嬉しくなってしまうのだ。

そんなわけで、昨夜も当時の祖父の気持ちを考えながら娘を抱いて部屋の中を歩く。息子の時は外を歩いたけれど、東京に比べてここは寒く、もう少し暖かくなってからにしようと考えている。外で寝付いた子どもを家に連れて帰るとき、ついつい玄関先に立つ祖父を思い浮かべてしまう。そして、祖父に「ただいま」と一声かけると、祖父は嬉しそうに微笑み、何も言わず消えるのだ。