Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

止まる日が変わる日

何もかも止まってしまう日がある。


考えてみると、数カ月に一度、そんな日がある。何もする気が起こらない。誰とも会いたくない。誰とも話をしたくない。可能な限りベッドの中で一日を過ごす。テレビや携帯もあまり見ない。寝るわけでもない。かと言って何かにずっと悩み続けているわけでもない。ウトウトしながら、静かに夜を迎え、また朝になるのを待つだけだ。


若干、欝が入っているのかも知れない。ベッドにもぐりながら、引きこもりに陥る自分をリアルに想像する。きっと、こうしたきっかけで引きこもりが始まった人もいるのだろう。僕にもそんな傾向があるのだ。何とか踏みとどまっているのは、僕の周りにいてくれた大切な人たちである。彼らは僕を優しく迎え入れ、あるいは叱咤激励し、前へ進む活力を与えてくれる。「止まる日」を1日ないし2日で済んでいるのは、皆さんのおかげなのだ。


結婚する前は、休日出勤を免れた土日にそうした日をあてがうことができた。それによって、仕事に支障をきたすことなくこの「止まる日」をやり過ごすことができる。
結婚後は少し困ったことになった。家庭生活が共同生活となったことで、それまでのように勝手気ままに一日を過ごすことが難しくなった。でも、程なくそれは解決することになる。息子が保育園に入り、妻が職場に復帰すると(逆だ。妻が復帰して、僕が2ヶ月ほど主夫をやり、息子が保育園に入ったのだ)、平日の昼間に何とか時間を確保することができた。夕方になれば息子を迎えに行くのだけれど、それぐらいのリミットがあった方が逆に安心することができた。


震災後初めてやってきた「止まる日」。唐突にやってきたそれは、タイミング悪く土日になってしまった。息子の幼稚園も、娘の保育園も休みで、なおかつ職場は休みではないという最悪なタイミングである。一日中ベッドに入っているわけにはいかない。子どもたちの面倒を見ながら、仕事も進めなくてはいけない。だが、僕の心は急速に萎え、一切の感情と一切の行動を停止させる。


僕は、娘と過ごすことを選んだ。
娘と遊び、寝かしつけ、昼寝する娘の横で僕も目を閉じ、ご飯を食べさせ、散歩に連れていき、娘と遊んだ。何も考えず、ただただ娘のそばにいて、笑顔で微笑んでいた。
夕方にかけて、徐々に回復する自分に気づく。「止まる日」は、いつしか「止まる日」ではなくなっていた。娘と過ごすことで、僕は「止まる」という手段を用いずに回復することができた。止めなくてもいいんだ。目から鱗が落ちるような思いだった。


こんな日を、新たにどんな名前で呼ぼう。止まることなく、子どもと過ごして自分を取り戻す日。
「戻る日」
これでいいかな。