Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

アイアム酒ソーリー

昨晩はだいぶ飲んでしまったようで、家にたどり着いたときにはもうフラフラ。
それでも息子の弁当箱を洗い、米をといで炊飯器にセットし、風呂に入って歯を磨いて寝た。きつかったけれど、やるべきことはやるのだ。翌朝の地獄のような時間が来るとも知らずに・・・。


こんなに飲んでしまったのは何故か。
ひとつは、震災の話が深く長くなったからだと思う。震災前、毎月来店する取引先の担当者さんと2ヶ月に1回は一緒に食事をとっていた。杯を交わしながら、いろいろな情報交換をする貴重な時間である。震災後途絶えていたそんな時間が、昨夜復活したのだった。地震のときどこにいてどんな風に考えたかから話が始まる。これまで部分部分で話していたことはあったけれど、まとまって話すのは初めてだ。話せば、つい昨日のことのように思える。あの恐怖と寒さと責任感で身体の震えが止まらなかった夜を、二度と忘れはしまい。それはみんな同じなのだ。


もう一つは、昨日悲しい知らせを受け取ったからだ。震災で多くの方が亡くなったし、遺族の方々の気持ちに何とか寄り添おうと努めてきた。ところが、接点のある人間の死が心に空ける穴の大きさに、改めてショックを受けてしまった。結局のところ、僕は何一つ理解していなかったのだ。


酒を飲んで交わした言葉は、多くの場合何も生み出しはしない。単にその時間を笑い楽しみ、あるいは共感し、自らの気持ちを癒すことにしか役に立たない。それでも、人は酒を飲み、一時の楽しみと引き換えに翌朝の二日酔いを受け取り、昨夜のことを思い出して後悔を繰り返す。祖父も、父もそうだった。そして今や僕もその一人だ。


きっと、また数週間後かに同じことをやる。数日後かも知れない。
でも何年後かには、きっとそう遠くはない未来には、その酒が祝杯となる日がくるだろう。震災の傷を癒すのではなく、復興を祝いともに労苦をねぎらう夜が来るに違いない。その時は、翌朝の二日酔いすら幸せに感じられるのではないかと、密かに考えている。