Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

ソーシャル・デモクラシー

このバッヂ、どこに付けようかな。。。


どんな集まりでも、その目的が「交流」なのか「行動」なのかで、議論の内容や進め方は変わってくる。「交流」の場合は情報の交換が主目的であるから、「行動」とは違って議論のテーマや目的、結論の共有と期限や担当者の割り当てなどは行う必要が無い。むしろそういったものが無い方が、それぞれが自由に自分の興味に基づいて話し、また他人の話しを聴き、情報の交換を通じてコミュニケーションを取るのだ。


ところが、そういった区別が難しい場合がある。昨日出席した市民団体の会議がそうだった。


初めてフルに参加させていただいたけれど、どうしても会議の進め方が「交流」になってしまう。団体としては「行動」に進めたいのだけれど、なかなかそこまで到達しない。というのも、住むところも仕事も異なる様々な人が一同に会しているため、議論の前にそれぞれの活動を把握するという時間がどうしても必要であり、かつ足りないためだ。3時間という時間を掛けても、なかなか具体的な行動にまで議論を進めることができず、「交流」に近い情報交換に終始してしまう。それはそれでとても大切で貴重な議論なのだけれど、どうしても歯がゆい思いを抱かずにはいられなかった。


震災後様々な団体に属し活動したけれど、多くは震災後にできたり、あるいは活動が変化した団体だった。その中で唯一、「交流」を経ずに「行動」に移すことができた団体がある。
http://sdma11.org/


それは、一昨日のエントリーでも述べたように、メンバーがそれぞれソーシャルネットワークを利用し、自分の考え方や現在置かれている状況の共有を図っていたからだ。実際に対面したとき、「そういえば、こうしてお会いするのは震災後初めてですね」という言葉が口を衝いて出た。久しぶりに会っても全く違和感なく次の「行動」に進むことができる。


そういえば、エジプトやチュニジアで起きた革命的な市民行動は、Facebookがツールとして存在していたと聞いた。なるほど、実際の行動はリアルな場所で議論されるかも知れないが、その前提条件となる「交流」ならFacebookで蓄積することができる。確かに、酒を酌み交わして笑いながら話が出来れば一番いいのだけれど、ネットワークとCPUが支配する情報社会は、特に子どもを持つ親を充分に開放してはくれない。非同期なオンラインコミュニケーションが、そうした世代にも利用できる強いメリットを持っているのだ。


今後の市民活動は、変わっていくだろう。まずはソーシャルネットワーク上でのコミュニティができ、そこでたくさんの情報交換による「交流」がなされ、リアルな「行動」に繋がっていく。そう、まさにソーシャルネットワークはプラットフォームになっていくのだ。