Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

ある瞬間の日常


おぐしが伸びてきた娘さん、今朝から微妙なお熱でして、しかも嫁さんは仕事、息子はヒーロータイム、外は雨、実家の母と妹は不在、昨晩夜更かししちゃった僕はとにかく眠いと、試練の日曜日が始まったのでござった。うら若き谷津直樹が12年前に出場したフェスティバルは杜の都をアートの街に変え、半年前に起きた東日本大震災を偲んで多くの人が黙祷し、あるいは10年前に日本中がそのショッキングな映像に食い入るように見入った同時多発テロ事件を想いその間の自分と日本と世界の変化を考える、そんな日だったのに、だ。


適当に朝食を済ませると、息子を実家の父に無理やり預け、熱と早起きで機嫌の悪い娘を寝かしつけに入る。これがなかなか寝ない!かといって抱っこから下ろそうとすると泣く!泣きたいのは僕の方だ。もっと言えば、僕の腰だ。腰さまをこれ以上怒らせるとただじゃスミマセンよあなた。ようやく11時前に寝かしつけたのは良かったものの、腰の痛みのために着陸箇所の正確性を犠牲にせざるを得ず、僕の眠るスペースはとても狭かった。なおかつ腰さまを気遣ったやるせない体制で、ベッドから足を出して寝る。


午後は妻が何とか二人を連れ出してくれたので、久しぶりの掃除タイムにありつけた。時折休憩を摂りながら、それでもずっと気になっていた箇所の雑巾がけを済ましたらとても清々しい気持ちになった。うむうむ。これぞ日本の日曜なり。


半年、1年、2年、10年と、区切りのときはやってくる。もちろん、あの悲しみを改めて想い、その時間の経過と共にこれからの時間を考えることはとても大切だ。そうして明日からの活力が生まれる。隣の人との一体感が生まれる。後ろを向くばかりではなく、前を向くきっかけにもなりうる。
一方、こうも思うのだ。日常こそ大切だ、と。いつもの、代わり映えのしない、そんな生活が、実はとても貴重で大切で幸せなことなんだって、僕らは半年前に、10年前に、66年前に、気づいたんじゃないのか。そんな一時の積み重ねが、やがて大きな成果となると僕らは自信を持ってそう言えるはずだ。だから、人それぞれでいい。トランペットを吹き、スティックを振り、音叉に合わせてAの音をとっても良い。移動する車から降り、あるいは仕事の手を休め、東の空に向かって祈ってもいい。あるいはニューヨークに降り立ち、十分なセキュリティを抜けてマンハッタンへ向かい、多くの人と同じように手を合わせても良い。


眠さと腰痛をこらえて風邪の娘を寝かしつけ、部屋中の掃除に明け暮れていても、それで良いのだ。