Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

「ナ」=「フ」+「|」+「一」

ほのかに喉が痛い。うがいと手洗い、何よりも充分な睡眠が大切だ。風邪など引いている場合ではない。くわばらくわばら。


ウォーリーを探せ」は、誰もが皆やったことがあると思っていいのかな?それのアンパンマンバージョンの絵本がありまして、上の写真はアンパンマンや食パンマン、バイキンマンなどを認識し始めた娘がそれを読んでいて、息子が問題を提示しながら適度にヒントを与えるの図である。「アンパンマンはどーこだ」「あたーりー」「じゃあカレーパンマンは?」「んーとこの辺にあるかもねー」「あたーりー」そんな感じ。
どうも娘は既に【目的のものをイメージで探す】ということができはじめたので、ちょうど楽しめる時期になってきたわけだ。たくさんの大人の中から自分の親を見つけたり、テーブルに並んでいる食品の中から自分が今食べたい(飲みたい)ものを探したり、そんなことが少しずつできるようになってきた。


この作業は、慣れれば慣れるほどより正確に、素早く目的のものを探し当てることができるようになる。山歩きの達人が落ち葉の中にキノコを見つけたり、虫取り名人が保護色によって自然に隠れている虫を捕まえたりできるようになるのと同じことだ、と僕は思う。目的となるオブジェクトに特有の視覚的特徴をイメージし、眼前にある光景の中からその特徴を抽出する。目を凝らし、パターンを見極め、感覚を養う。目と言うよりは、過去に見たものを脳内で再生する能力の発達がキーになっていると思う。あくまで僕の主観だけど。


もしかすると、小さい子どもほどそういった能力には長けているのかも知れない。余計な先入観が入り込むと、目的の物が正確に脳内で再生できない。それから、探し求めるには根気というか情熱が必要で、純粋な子どもほどそれに没頭できるような気がするからだ。
息子がまだ字を覚えたてのころ、「た」の書き順の意外さに驚いたことがある。左側の「ナ」から書き始めるのだが、まず下から上へ向かう。そのまま頂点まで行くかと思いきや、急激に左に旋回する。すなわち「フ」になる。その後、カドからまるでツノが生えるかのように棒が飛び出し、「ナ」となる。
「ナ」が、「ノ」と「一」の重ね合わせとしか認識できない大人には発想できない。そして、もしかするとそうした捉え方でないと見えない世界があるのではないかと思うのだ。


さて、娘はどんな風に今の世界を見ているのだろう。また息子のように奇想天外な発想を見せつけてくれるだろうか。もしかすると、そんな親の予測を遥に逸脱した出来事を見せてくれるのかも知れない。