Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

相手に踏み入ることと、打ち解けること

大学生のとき、周りにいた人格者たちは僕に向かって口々にこう言った。「本を読め」と。
ある人はオススメの本の名前や作家の名前を次々に口にし、またある人はバッグから本を出して貸してさえくれた。後日、わざわざ僕のために買ってきてくれる人さえいた。いま考えると大したものだ。「本」を「曲」または「アルバム」、「作家」を「バンド」にしても同じ事だ。みんな僕にあらゆるミュージシャンの代表作や最新作を勧め、貸してくれた。


我ながらそんな人格者たちに負けず劣らず人格者だった僕は、多くの場合そういった進言を素直に聞いた。大抵は酒が入ったところでの会話だったけれど、最悪一つだけでも覚えていようと、酔った頭に聞き覚えのない名前を必死に刻もうとしたり、時折バッグからノートを取り出してメモを取ったりした。飲んだ翌日は大概は寝て過ごしたけれど、十分に暇を持て余していた僕はいつも本屋とCDショップに入り浸り、苦労して記憶の片隅から虫食い状態の作家やバンドの名前を引っ張り出したり、メモしたと思われるノートを片っ端からめくってヒントとなる落書きを探したりした。心細い財布からささやかなお金を出してオススメの作品を購入するものの、実のところ、読んだり聴いたりした感動よりも、「次にこの件について話しができる」という点に価値を見出すことの方が多かったような気がする。もちろん、そんなことを繰り返すうちに、かけがえの無い出会いにめぐり合ったことも事実だ。コリン・ウィルソンColdPlayカート・ヴォネガット・ジュニアStevie Wonder。僕一人の力では到底出会うことがなかった偉大な才能の持ち主たち。


今33歳というそれなりの年齢になって周りを見回したときに、自分の感覚を他人に強要することほど醜いものはないなあ、とつくづく思う。あんなのはダメだ、こうすればいいのに、誰がやっても同じだ、僕が若い頃は、これも読んでないの?、みんな聴いていたけどなあ、今の奴らといったら。
確かにね。貴方から見ればそうなんだろうと思うし、それを否定もしない。僕だってそういった言葉を聞くことで得られたこともたくさんあるし、きっと貴方が正しいんだろう。


でもね。僕は醜いと思う。誰が何と言おうと僕がそう感じるんだから仕方が無い。少なくとも、僕はそんなことはしない。
何故だろう?それは相手の人格を認めていないからだと思う。確かに直すべきところはたくさんあるし、幼かったり、未熟だったり、浅はかだったり、貴方から見れば醜かったりするんだろう。でもそれはその人自身の今であって、決して否定すべきものではないと思うのだ。相手を否定するならば、相手からも否定されて当然だろう。それが平等というものだ。
もし君が、この先こうしたいなら、こんな本が参考になると僕は考える。君の趣味は、もしかするとこういった傾向があるかも知れないから、こんな曲がお気に召すかも知れないと僕は考える。僕はそうしか言えない。選ぶのは当人の自由だ。それに対して、僕なりの考えをちょっと紹介するだけだ。


これが僕のスタンスなのだけれど、これが壁をつくっていて、なかなか打ち解けられない僕の弱点なんだという指摘もあるかも知れない。なるほどそうかも知れない。貴方が正しい。でも、僕ならきっとそんな指摘はしない。僕は踏み入ることはできない。例え僕が踏み入られても。そういうことだ。