Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

本日のブログはかなり主観的で息子の自画自賛というかスミマセン






昨日、息子のサッカーの試合終了後、「鶏肉が食べたい」という息子の要望を聞き入れ、白石駅前の「やきとり大吉」へ。僕の友人一家(息子の友人一家でもある)を急遽お招きし、賑やかな打ち上げとなった。季節外れの暑い日と、息子の公式戦初得点と、チャラにはなったけれど息子のパントキックによるオウンゴールと、娘に手は焼いたけれど一家で観戦した楽しさで、気持ちの良い生ビールを4杯ほど飲んだ。その後「やきとり大吉」の個室風座敷には、iPhoneアプリに夢中になるあまりオレンジジュース2杯分の水分を室内に垂れ流す少年が出現。下半身裸になりながらもアプリのことばかりを宣う少年に呆れる大人が約2名ほど出現。大騒ぎで打ち上げは終了となり、ヘトヘトに疲れきった大人のオスの方がKOされたため、昨日のブログは欠落することとなった。
友人一家には大変気を使ってもらってしまった。感謝の念に絶えない。彼らの気持ちに応えるべく、息子には幾分語気は強めたものの、一方的・抑圧的な叱り方はしなかったつもりだ。親として子どもに与えるべき最低限のルールやマナー、そして一方、同じ人間として尊重すべき子どもの意思や気持ち。そのバランスは本当に難しい。


少年の失敗についてはここまでにしよう。


息子が1点取った。予想通り、キーパーを除くすべての選手がボールを蹴ろうと殺到する実に非効率的なサッカーの混戦の中、息子の蹴ったボールはゴールに吸い込まれた、らしい。というのも、僕も妻も、息子の通うサッカー教室の先生でさえ、息子が蹴った瞬間を見ることができなかった。それほど子どもたちは層をなして集まっていた。平日8時前後の東京-神田間の山手線のようなものだ。
ともかく息子の証言によれば、彼の蹴ったボールはゴールネットを揺らしたそうだ。信じるほか無い。誠におめでたいことだ。父親の公式戦初得点は、小学校6年生であるから、この時点で息子は父親を抜いたことになる。嬉しそうな息子を見ることができて、僕は本当に嬉しかった。本当におめでとう。この快感を忘れずに、これからも頑張って欲しい。願わくば他のスポーツでも、あるいはスポーツ以外の様々な事柄の中にも、「楽しさ」を見出して欲しい。あらゆる事象の中に、必ず輝くものがある。それを信じる力を身につけて欲しい。それは、やがてやってくる「人生を見つめるとき」に大いに役立つことだろう。


もちろん息子の得点は嬉しかった。しかし、僕が嬉しかったのは、それとはもう少し別のところにあった。(抜かれたことに不満なわけではない。決して。決して・・・)


息子は、他の幼稚園の児童と比べて、特にテクニックが秀でているわけでは無い。体は少し大きい方だけれど、もっと大きい子もいる。足も早い方だと思うけれど、ここぞというときの瞬発力では負けることも多かった。スタミナに溢れているとも言いがたい。総合的に見れば、年長組に限定してみれば、実に平均的な能力ではないかと思う。贔屓目に見ても。そして、少しだけ他の児童の中で優れているとすれば、それは「空間を見る力」と「キック力」だったと思う。
こんなシーンがあった。
敵チームが触れたボールがゴールラインを割り、キーパーによるゴールキックとなった。当日行われた試合全般的に言えることだが、このゴールキックが敵チームからすると絶好の得点チャンスだった。というのも、試合直前に希望制により選ばれたキーパーはキック力が十分な児童となることは稀で、彼らによるゴールキックはわずか3メートル先の選手の壁に遮られてしまうのだ。それを知っている児童は、ゴールキックのために置かれたボールからわずか数メートル離れた位置に壁のように並ぶ。蹴られた瞬間、転々と転がるボールに我先にと突進し、ゴールを狙い、あるいはそういった敵チームからゴールを守るのだ。
息子もキーパーを担当する機会があり、ゴールキックを蹴ることになった。これまで通り、ボールの正面には子どもたちの壁。審判の先生が10歩20歩離れてねと指導するも効果は低い。
息子は、壁を大きく避けて蹴った。それは、少なくとも壁になってまでボールを触ろうと躍起になっていた子どもたちにとっては、予想もできないことだったに違いない。転がるというよりは跳ねるという表現の方がフィットする程度の強いボールが、味方陣内から、誰もいない敵陣内の手前まで移動した。その方向に、味方がいる場合もいない場合もあった。しかし、息子にとって重要なのは、「ボールのある位置を少しでも相手ゴール側に近づける」だった。
こんなシーンもあった。
お馴染みの団子状態で、ボールに何人もの子どもたちが殺到してとにかく蹴ろうとする。息子も例に漏れず、それなりに団子の一員となってボールに向かっていた。多くの子どもたちは、蹴っても目の前の子どもに当たるか、またはキックが弱いため、局面を打開することがなかなかできない。団子からボールが抜け出るのは、半分以上は偶然による仕業だった。
一方、息子の蹴るボールは不思議とこの団子から抜け出ることが多かった。もちろん、キック力があるから他の子よりも強いボールを蹴ることができるのは確かだけれど、どうも息子はとにかく空いているところを目掛けて蹴っていたようだ。多くの子どもたちが相手ゴールに向かってボールを蹴る中、息子は少しだけ視点を変え、とにかく団子からの抜け出しを図るために、自陣よりも敵陣方向の中で比較的ボールを出しやすいところを探していたのである。(このあたりは結構贔屓目かも知れない)


この「空間を見る力」というのは、サッカーにおいて非常に重要なスキルである。
例えば、野球のキャッチボールをするとき、投げる人は捕る人に向かって投げる。野球というのは基本的に、人を狙ってボールを投げるものである(例外はゲッツーを取る時か、ファーストゴロでピッチャーがベースカバーに入る時など)。ところが、サッカーは違う。サッカーは、次にボールを触る人が行動するために最適な「場所」を狙うものだ。DFでパスを回すときですらそうである。相手選手の状況などを考慮しないとすれば、真横にパスしたら「もう少し横に回して様子を見る」という意思だし、少し敵陣側に向けてパスすれば「そっちサイドで少し縦への突破を試みて」という意思を表す。得点シーンにしても、パスを受ける前から場所を動かずに決まったゴールというのはほとんど見たことがない。
僕の勝手な主観だけれど、日本人はどうもキャッチボールという野球的な視点に支配されている(いた)ような気がする。昨日の試合でも、「パァーーーース!!」と叫んでパスをくれと要望する不動の児童がかなりいた。お父さん方は、日曜のたびに狭い庭や公園で息子とサッカーボールの蹴り合いをするのだろう。僕とて同じだ。ボールはお父さんに向けて蹴る。お父さんは僕に向けてボールを蹴る。キャッチボールと同じだ。
だからこそ、日本人はスルーパスが大好きである。選手と観客の度肝を抜く様な華麗なスルーパスは、日本人にとって既成概念を破られたような、痛快な感動を生み出してくれる。そのボールは、これまで誰もいなかった空間に向かって蹴られたボールである。


いやー、これは完全に親の欲目だな。でもいいや書いてしまう。息子が、ともかく空いているところに蹴るというのは、旧来のキャッチボール精神に支配されてない自由な感性を持っているという気がしたのだった。それは、僕にはなかなか超えられなかった壁だった。息子は、もともと壁を持っていなかったということだ。これは誠に喜ばしい。


視点が自由であることの何と貴重なことよ。慣例、しきたり、伝統、習慣。息子もいずれ、そうしたものに徐々に影響される。誰かが考えだして広めた考え方に固執してしまうことがきっとあるだろう。それは、一方でとても大切な経験なのかも知れないが、おおよそ視点の自由さを奪うことに関してはどれも共通だろう。少なくとも僕は、小中高と管理教育を施され、親や親類によるシツケに染まり、狭い村社会の中で慣例に縛られ、視点の自由さ・頭の柔軟さ・考え方の広さ、そういったものを少しずつ失っていった。気づいたのは大学のころだった。僕は必死になってそれを取り戻そうとした。しかし、それはなかなか取り戻すことができなかった。


息子には、出来る限り自由さを保持して欲しい。サッカーでもいい。他のスポーツでもいい。スポーツ以外でもいい。とにかく自由な視点で、柔軟な発想で、広い考え方で、行動することができることを続けて欲しい。そしてそれが尊重される環境であって欲しい。少なくとも僕はそんな風に息子の環境を整えるべく努力する所存だ。何せ、僕が取り戻そうと必死になっていた輝かしい宝物が今そこにある。それをまざまざと失われてたまるものか。
発想が世界を変える。それは、20年後も変わらないに違いない。