Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

夜中の音楽論的な戯言

妻が日中仕事に行くようになってからというもの、家の車は妻の通勤用になっているため、僕はもっぱら母親の車を使って子どもたちを幼稚園やら保育園やらに送りつつ通勤している。日中は会社の車を使うので、その間は母親が使う。夕方、買い物を済ませた母親が使わなくなった車を拝借して子どもたちを迎えに行き、そのまま自宅へ帰る。簡単なカーシェアリングだ。使用頻度が低い朝晩に僕が使うのは何とも効率的である。


その車には、妹が録音したらしき曲が入っている。母親向けの音楽も入っているが、Mr.ChildrenMy Little LoverSpitzDreams come true、L'Arc-en-Cielなどのベストアルバムが入っている。わざわざiPhoneを取り出してバッテリーを消費し好きな音楽をかけるのが面倒なときもあって、こうした少し前に一世を風靡した音楽を聴くのも悪くない。少し前というよりも、僕らの時代といった方が正しいか。いずれも少しは聴きかじったし、TVの音楽番組では常にランキング上位に入っていたから聴き覚えのある曲ばかりなのだ。聴いてみると、今だからこそ気づく点がある。良さに気づくときもあれば、気恥ずかしさのようなものを感じるときもある。


あくまで僕の主観である。
おしなべて言えることは、曲調や歌詞を含めて、一般に「軽い」ということだ。しかも、凝りに凝って、実に巧妙に練りこまれた軽さである。多分、80年代から90年代初期に見られる軽さと比べると、技巧的な面で著しく差がある。70年代までの熱く粘っこい音楽から脱皮し、ファッション性に向けて踏み出した時代は、ただ軽ければそれで良かった。その後、録音設備やシーケンサーなどの技術的な進歩と、ドラマやCMなどがCDの売れ行きを左右する時代になり、訳のわからないミリオンセラーが連発する中で、音楽業界は異様な競争社会になっていった。一際異彩を放ち確固とした地位を築いたミュージシャンは、そんな中で技巧的に優れた作品を出すことで、曲の持つ「軽さ」を保ちつつ差別化に成功した。
ここで、僕の使う「技巧的」とは、単なるテクニックだけを意味するのではなく、歌詞に一定のテーマ性を持ったり、楽器の特性を生かした素敵なフレーズを入れたり、若者が憧れるようなかっこ良さを演出したりということも含む。


なので、先に挙げた曲を聴いていると、つい「うまいなあー」と思ってしまうのだ。桜井和寿が時々歌詞に入れるメッセージ性のありそうな言葉や、小林武史がメロディーの合間にチラリと聴かせるストリングスや、草野正宗が放つ綺麗な言葉の裏側など、小憎い技巧派のアプローチ・ショットがバンバン出てくる。ピン側ピタリの芸術作品である。なるほどねーと思いながらハンドルを切る。そしてエンジンを切ると、仕事やら子どものお迎えやらの現実にスッと切り替わる。切り替わることができる程の「軽い」曲なのだ。それが悪いわけではない。時代が要請した、時代に合った曲たちなのだ。


ところがだ。まだきちんと聴いていないのだけれど、おそらくRADWINPSは違うんだと思う。多分、重さがある。ドライバーに近いぐらいの思い切りの良いキャリーが出ているような気がする。ジャブの繰り返しではなく、カウンター覚悟のストレートが入っていると思う。RADWINPSに限らず、もしかすると、そんな熱さ・重さ・覚悟を、時代が要請しつつあるような、そんな気がする。岡林信康とか泉谷しげるがもうとにかく撃てや飛ばせやとかっ飛ばしていた時代に、何となく憧れているようなそんな空気を感じる。
軽いだけじゃダメなんだよ。いつもじゃなくていいけれど、もっと深く感情移入して泣いたり笑ったりもしてみたいんだ。きっと。それは、技巧派の刻むアプローチだけじゃ物足りなくて、時には心臓にズカーンと響く直球を受けてみたいんだと思うのだ。
少なくとも僕はそうだ。


もちろん、例外はある。おしなべて、ということであるし、何しろ僕の勝手な主観であって、夜中の単なる戯言だと思っていただければ幸いd(いいわけ)