Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

常に参加者募集中


息子が生まれてしばらく経ったころ、おそらく今の娘(1歳半)くらいのときに、「パパの育児参加」とかいう言葉が目につくようになった。何故目につくようになったかというと、おそらく僕自身に「育児参加」という意識が皆無だっただけに、一定のインパクトを持って僕の心を殴打するからだと思う。「体重+5kgで寿命-5年」とか「あなたは搾取されている」とかそういう言葉と同じだ。


いやいや貴方は十分育児してるだろう、と言われるかと思う。その通りなのだが、僕自身は「参加」しているつもりは無い。僕は、育児というプロジェクトにおける主催者のつもりなのだ。要するに、育児なる誰かが催した企画にエントリーした単なる競技者ではなくて、僕自身が育児をつくりあげて進行する役目を負っていると感じているのである。


何故そう思ったのかは良く分からない。いつしかツイートしたように、僕の中には「例え片方の親が消えたとしても、仕事と家事と子育てだけは継続しなければならない」という責任感がある。だから、例え妻が入院とか長期出張とかで家を空けるとしても、十分やっていけるだけの体制を維持しなければならない。従って、常に育児や家事を部分的に自分の役割として果たすことや、子どもたちとの普段のコミュニケーションをとても大切にする。これが僕の育児の基本姿勢なのだ。
だから、「参加」という感覚には違和感を覚えてしまう。子どもと母親が創り上げた世界に、ゲストとしてしか参加できないとは、なんとも悲しい。かけがえの無い子どもにとって、父親もまたかけがえの無い存在なのだ。ただ参加するだけじゃつまらない。父親である自分だけの子育て、自分だけの子どもとの関係を養うべきだと思う。それは子どもにとっても、親にとっても十分貴重な体験になるはずだ。


さて、これは果たして、育児だけに限る話なのだろうか?
毎日決められた時刻に会社へ行き、つまらないだけの時間を耐え、帰宅後の趣味の時間を楽しむためだけに働く、そんな「参加者」
役員や管理職が決めた会社の方針を聞き、そのノルマを達成することだけに執念を燃やす「参加者」
そんな参加者に、僕もいつしかなってしまうのではないかと、密かに怯えていたりする。