Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

バトンタッチの瞬間

少し遠目の親類の告別式に出席した。


葬祭場ではなく、故人のご自宅で行われる告別式に出席するのは、おそらく初めてのことだ。珍しいような気がしていたが、ここ白石市周辺の特に山間部では珍しいことでもないらしい。わざわざ数km離れた葬祭場まで近所縁者に足を運ばせるのではなく、見知った人々が集まれるような場所、つまり故人の家で行うというのも確かに分かる気がする。この地域に生まれ、この地域で育ち、この地域に生涯を捧げ、この地域に看取ってもらう。そんな地域との関わり方、生き方が存在するのだと今さらながらに思った。


親類とはいえ、僕自身は故人とはまったく関わった記憶が無い。だから、何か思い出があったとか、惜しい人を亡くしたとか、そういった感傷は持ち合わせていなかった。それなのに、弔辞で、お別れの言葉で、話し手がつい涙溢れ言葉に詰まる瞬間を目にした時、僕の涙腺はついつい緩んでしまう。まったく、泣き虫だけは子供の頃から変わっていない。


焼香を終え、唯一近しい親類に挨拶し、足早に式場を後にした。少しばかり雨が降っていた。コートや傘は邪魔になると思い持って来なかったので、スーツのまま近くに停めた車まで急ぐ。読経中に携帯に着信があったので、着歴からリダイヤルしてみる。話し終わって車に乗り込むと、急激に寒さを感じた。エンジンをかけ、しばしエアコンが車内を暖めるのを待った。風が吹いて、道路に落ちていた枯れ葉を視界の左側に流す。と同時に、右側からは新たな枯れ葉が道路上に流れ出していた。


式場に、何人かの子どもの姿があった。おそらく故人のひ孫であろう幼稚園くらいの女の子は、親らしき男性の膝に座っていた。廊下には、幼い子をおんぶした女性が正座していた。ちょっとばかり覗いてしまった、ご遺族の控え室がわりとなっている部屋では、小学生低学年と思われる男の子がコタツに入っていた。


新たに生まれる命と、失われる命。こうして世代が変わっていく。世の中の運命ではあれど、命が息吹く瞬間と命が失われる瞬間の間に存在する時間的ギャップは、変わる世代間で心を通わせる無二の機会だ。その間に、曾祖父母はひ孫を抱き、ひ孫は曾祖父母の顔を覚え、互いに愛情を交換し、笑顔の瞬間をつくる。例え数日しか無かったとしても、命のバトンはそうやって子々孫々と受け継がれていくのだ。そんな心の交流の機会を無駄にしてはいけない。


そう、そんな無二の機会というのは、今まさにこの瞬間なのだ。