Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

2004年、新潟。


そういえば、僕は2004年10月23日に発生した新潟県中越地震の直後、僕自身が2002年から2003年にかけて構築したシステムの復旧のため、新潟市内へ入ったのだった。昨晩、何故か唐突に思い出した。


あの時は、親会社の新人1名と共に東京駅から上越新幹線に乗り、越後湯沢で代行バスに乗り換えて新潟市へ向かった。やたら狭いバスで、少し車に酔った記憶がある。車酔いを覚ますため、バスの終着駅で少し屋外を歩いた。Googleストリートビューで確認したら、どうやら長岡駅だったようだ。Wikipediaを見ると、長岡-新潟間の復旧は11月4日だそうだから、そのあとということになる。11月中旬だったのかなあ。11/9には確実に東京にいたハズだから、その後かな。


越後湯沢に降り立ったときはとても寒かったような気がするけれど、新潟市はそうでも無かったはず。雪も無かった。到着初日にシステムの復旧を完了させ、2日目は不測の事態に備えて新潟市内で待機することになった。待機の間、新潟駅前のホテルを抜けだしてえんやこら古町まで行き、マクドナルドだかモスバーガーだかで昼食をとり、服飾雑貨店で嫁さんへのクリスマスプレゼントを買った。歩くと少し暑いぐらいで、マフラーを外しコートのボタンは開けたままだった。ずいぶんと早めにプレゼントを買ったのだなあと、当時の自分に感心する。


当時の僕は、妊娠初期で酷いつわりに悩まされる妻と、1月に迫った結婚式とを抱えて右往左往していた。妻と僕の親同士の食事会をやったり、11月9日に新宿区役所箪笥町出張所で婚姻届を出したり、思い出すと胸がキュンとする。何とか妻と二人で頑張ろう、そんな風に心に誓ったけれど、それでも不安で一杯だった。被災地の気持ちに寄り添うような余裕は全く無かった。新潟の人たちには、そんな僕はどんな風に見えたのだろう。


東日本大震災の被災地へ来る人々にも、それぞれの人生がある。悩んでいる時期もあれば、余裕がある時期もある。全ての人が被災地の人々に心を寄せ、親身になれるとは限らないのだ。当たり前のことなのに、何故か気が付かなかった。自分の記憶が無ければ、きっとそんな風には思えなかったに違いない。