Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

1%からのアインシュタイン

もうすぐ卒園を迎える息子だが、このところまた一つステージが変わりつつある。身体的な成長と知能的な発達が著しいのだが、どうも精神面にはむらがあるようだ。この時期は仕方ないのかも知れないが、それでどうしても親と衝突してしまうケースがある。
例えば、興味を持つ分野に対しての知的欲求が大きく、生活のリズムなどといった意識が欠けてしまう。もちろん以前にもそういった傾向になることはあったのだが、まあ幼いからと許せる範囲だったり、違うもので興味を惹けばきちんとやるべきことをやっていたりしたような気がする。ところが、その経緯も無意識下で記憶しているのか、今その"楽しいこと"をやらないともう二度とやれないような切迫感を持っているかのようだ。
また問題なのは親、つまり僕の方で、これまでの成長の過程を踏まえると、このくらいのことはできるだろうと思ってしまうことが良くある。つい数ヶ月前には自主的にできていたことや、本人が自分で決めた約束事などを息子に求めてしまう。息子はそれを分かってもいるのだろうが、それよりももっと大事な、興味深いものができてしまったが故に、ある意味で退行してしまっている。そしてそのことを自ら容認している。


僕は、育児に関しては次のようにも考えている。

アインシュタインは学校の授業についていけず、自宅で母親とともに学ぶ生活を送った。学校のような型にはまった画一的な教育ではなく、その子それぞれの興味関心を大切に育むことが、その子の能力を伸ばし、ついには世界的な発見をするような人間を生み出すのだ。

ところが、そうもいかない。息子の興味関心に合わせて、気が済むまでそれをやらせることは不可能だ。僕も仕事に行かなきゃいけないし、娘だって保育園に預けなきゃいけない。そのためには家を出なきゃいけない時刻というのはおのずと決まってくるから、息子にはそれに合わせて行動してもらわないと困る。すると、朝は早めに起きるべきだし、寝る時間が少なければ目覚めも悪いし機嫌も悪いわけで、従って夜は早く寝てくれないといけないわけだ。
ところが息子はそうはいかない。マンガも読みたいし、インターネットで動画も見たいし、ゲームもしたいし、妹とも遊びたいし、父親や母親とも話したいし、食後は美味しい果物でも食べたいわけで、親が思う通りには動いてくれないわけだ。


つい息子を怒鳴ってしまうし、息子はそれで傷つくだろうし、その姿に僕もまた傷ついてしまう。悪循環だ。


全てを否定してはいけない。否定されたら、誰もが自分を守ろうとして反撃する。その繰り返しの果てには何も生まれない。お互いが傷つくだけだ。
息子にとって大切なことをきちんと認めること。息子がどうしてもやりたいことを、どうやったら思う存分やれるかを一緒に考えること。その気持ちを、忘れないようにしないと。相手と信頼関係を築くためには、99%相手が間違っていたとしても、1%の正しさを認めることがまずは必要なのだ。
それは、育児を含めた、人間と人間が共生するための最低限のルールかも知れない。