Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

炭鉱の町

九州の話パート2。今回は親戚宅へ行った話。
僕の父方の叔母は、つまり父の妹だが、九州に嫁いだ。福岡県は田川郡。明治から昭和初期にかけて、炭鉱によって大いに栄えた土地である。現在、数多く存在していた炭鉱は閉山となり、日本全国の数多くの地方都市と同様、少子高齢化と人口減少が進む地域だ。


最終日。午前中にホテルに到着する荷物を待って、レンタカーで出発。慣れない道に加えて、昨晩・一昨晩と深夜まで飲んだお酒の影響と、温帯低気圧に変わる直前の台風による風雨によって、片道1時間がとてもしんどかった。おまけに早朝には豪雨の中、上半身スケスケになり迷子になりながら博多の街なかを走り、心身ともに疲れていたのだ。


叔母の家は高台にあり、開けた所からは町が一望できた。ご近所に何軒か家はあるものの、家の周りはどちらかと言うと緑が多い。わざわざ近くの銭湯にまで叔父と叔母で迎えに来てくれて、2台に挟まれるような形で叔母宅の庭に駐車。居間に通されて、近くにあるなかなか美味しそうなケーキ屋さんから買ってきた特別なケーキを用意してくれていた。
ケーキに舌鼓を打ちながら、近況や周辺のことなどを叔父と話す。昼がまだだったけれど、疲れと緊張のせいかあまり食欲は無く、桃を使ったケーキと少し甘めのコーヒーが本当に美味しかった。
祖母が震災後1年、避難生活を送った部屋を見せてもらった。バリアフリー化された通路、大きめのテレビ、祖母が暮らした痕跡がそのまま残っていた。


その後、叔父がライフワークとしている弓道場へ行き、叔父の両親へ挨拶し、やっと叔母と一緒に昼食にありつけたのは午後2時半を過ぎた頃だった。変わらず食欲は無かったので、ラーメンにしてもらった。豚骨ラーメンを食べて少し元気になったような気がした。
それから、田川市の石炭・歴史博物館へ向かう。あまり時間が無かったためじっくり見られなかったのが残念だった。この地方を理解するには、こうした歴史をきちんと学ばなければいけない。少し急ぎめに見学し、叔母と博物館を後にした。
最後に叔母が丹精込めて育てているイチジクのハウスを見せてもらい、その苦労話を聞いたあと、再びレンタカーに乗って福岡空港へ向かった。不思議と、行きに比べると若干体が軽くなったような気がした。一度通った道だったからなのか、それとも用件を済ませてホッとしたからなのか、もうすぐ帰れる安心感か。そういえば雨もいつしか上がっていた。


映画「フラガール」を思い出した。炭鉱というのは、とてつもない事業だったのだろう。そしてその影響は、今もなお日本のそこかしこに息づいている。きっと表舞台には出てこない、暗く悲しい歴史もあるに違いない。そうしたことを見聞きして育ったのが叔父だったし、そこへ嫁いだのが叔母だったのだ。たった一人で東北の片田舎からこの炭鉱の町へやってきた叔母は、どんな気持ちだったんだろう。つらいこともあっただろう。3人の子どもを授かり、幸せを感じたこともあっただろう。あまりにも時間が足りなくて、そんな空想に自分を沈める時間すら無かった。


叔母は終始にこやかだった。僕の訪問を精一杯歓迎してくれた。「ごめんねー、何もなくてー」とずっと言っていた。そんなことはない、僕は叔母が過ごしたこの土地に来られただけで十分だった。むしろ、僕の方が元気が無くて申し訳ないくらいだった。
博物館から叔母宅へ向かう途中、叔母がこんなことを言った。
「昨夜、お父さん(僕から見ると祖父・12年前に亡くなっている)の夢を見てね。別にいつも見るわけじゃないんだけどね。何でだろうねー。直くんが来るから浮かれてるのかな?w」


ふと、二人だけの車内に、祖父がいるような気がした。ああ、祖父は僕についてきて、僕の旅を見守りつつ、娘のところに来たかったんだな、そう思った。つい、胸から込み上げるものを感じた。


またここへ来よう。そしてその時は、きちんと祖父も連れてこよう、そう思った。