Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

時間が必要なんだね。そして少々疲れるけれど。

職場の人間関係で色々ありまして。まあ収束に向かいつつあるんですが、ここ1週間ほどは対話を繰り返してクタクタなのです。


指導・育成という、一つの特殊な人間関係において、「指導される側の十分な進歩」という目的を達成するためには、まずは十分な「信頼関係」が必須だなあ、ということをつくづく感じる。信頼関係が無ければ、指導の言葉も単なる罵声や文句にしか聞こえなかったり、ガミガミ面倒なことを言いやがってということになったりして、指導の成果を十分に得られない。指導する側もそうだ。相手の育った環境や性格や傾向を掴めないままに頭ごなしな指導をしても、伝わり方は不十分だろう。
一方、十分な信頼関係にあれば、「あの人はあんな性格だからああいう言い方になるけれど、僕らのことを考えて言ってくれているんだな」となる。あるいは、「あの後輩はこういう所があるから、非を責めるよりも自主性を尊重した上でどうすれば良かったか考えさせた方がいいかな」などと指導方法も選択することができる。


じゃあ信頼関係ってどうつくりあげるの?ということになると、これはとにかく相手と十分話し合うしかない。仕事中、休憩時間、飲み会、あるいはメールなどでもいいと思う。自分の思いを伝え、相手の考えを聞くことを何度も何度も繰り返すことで相互理解が深まり、信頼関係に繋がる。それしかないのではないか。
最近、特に年配の方から「若い人は携帯電話やインターネットばかりで人間関係が希薄だ!」なんてことも聞こえるけれど、実際に僕から見えるのは、新たに人間関係を構築することに疲れてしまった人生の先輩の姿だ。特に、自分が育った環境とまるで違う「現代」で育った若者と、ゼロから信頼関係を積み上げようとする気力が、僕からは見えてこない。
かと言って僕らや下の世代の人たちも、積極的に年配の方々とコミュニケーションを取ろうという人は少ないだろう。個人主義に守られた自分だけの領域に、他人を入れることに踏み出せる人間が、果たしてどれだけいるのだろう。僕自身、まだまだ壁をつくってしまっていて、信頼関係を構築すべき方々と十分にコミュニケーションを取れているとは言いがたい。


時間が必要なんだね。そして少々疲れるけれど。相手の言うことを親身になって傾聴し、自分の本質を嘘偽りなく伝える。それを繰り返していくしかないんだなあ。