Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

1992年9月

ウォームアップのあいだ同じ9区を走る先輩の背中を見続けることで、体中の血が燃えるような緊張が、少し和らぐような気がした。地区大会から県大会へ行けるのは1チームのみ。現在トップを独走するAチームのアンカーの方が、Bチームの僕よりずっとプレッシャーがかかっているはずだったからだ。

トップでタスキを受け取った先輩を見送ると、いよいよ逃げ場は無かった。
走る前から息が切れている。緊張していた。
2位からかなり離れた3位でやってきた8区走者は、ずっと一緒に走ってきた仲間だ。続く4位との差はおよそ1分。倒れこむ仲間からタスキを受ける。

掛け声が溢れる中継所から突然、完全な一人になった。聞こえるのは自分の呼吸音、見えるのは自分の足と少し先の道だけだ。すぐに息が切れる。3.7kmの戦いが始まった。

1km地点を通過したころ、後ろから足音と激しい呼吸音が聞こえた。4位のチームは9区にエースを配置。エースは3年生、最後の大会だ。前を行く他校の2年生、しかもBチームの僕は死んでも抜くつもりだろう。

2km過ぎにかわされる。
負けたくない。しかし、食らいつくが抜き返せない。相手はさすがエース。序盤かなりハイペースだったはずだが、スピードは落ちない。僕は最後に待つ長い上り坂に賭けた。
しかし、無情にもその後差は徐々に開き、上り坂に入るときには、エースの背中はもうかすかにしか見えなかった。

坂を上る。
苦しかった。でも、ここまで来た。僕は走っている。

小さい頃から体が弱かった。いつもいつも、喘息で寝ていた。
夜、一人だけ眠れない。息ができず、四つん這いになって必死で気道を確保する。いつしか力付きて寝る。朝にまた熱が出た。

母さんはいつも心配してくれた。母さんの妹の叔母さんも、常に僕の体を気に掛けてくれた。
通院と布団で寝る日々。宗教にもすがったことがある。母さんの新年の願いはいつも僕の体のことだった。

小学5年にサッカーを始めた。急に体が強くなるはずもなく、万年補欠で小学校を終えた。
中学に入り、試しに毎日放課後、近所の神社の階段を走り始めた。古い70段ばかりの石段を、1日10回駆け上がった。いつしか、1年生ながら先輩に混じって試合に出るようになった。そして、1年生の冬、駅伝選手として選抜された。
2年生になり、初めての地区駅伝大会を迎えた。各運動部から選抜された選手30〜40人の中から、A・Bチーム合わせて18名が更に選抜される。僕はBチーム、最長3.7kmを走るアンカーを任されることになった。

その役目が、あと500m程度で終わる。4位でもいいのかも知れない。相手はエースなのだ。
それでも、上り坂は待ってくれない。夢中で足を運ぶ。神社の階段を上るように。踏み込む度に震える自分の太ももだけを見続けていた。

坂の終わりが見えたとき、僕の目に意外なものが2つ見えた。
前を行くエースの後ろ姿、そして、母さんと叔母さんの姿だった。
母さんと叔母さんが何か叫んでいる。母さんは泣いているのか、ハンカチを手に持っていた。二人の横を通り過ぎるとき、僕の背中を押すように声が聞こえた。


「直樹ーーー!!!」


僕は、一人じゃなかった。


僕は、前を見て走った。心臓が喉から飛び出ても、足の裏が擦り切れても、僕は前を行くアイツを抜く!
ゴール手前150m地点の下り。母さんと叔母さんの視界ギリギリで、僕は相手を抜いた。
残るは最後の上り坂。後ろを見る余裕は無かった。

ゴール地点は、Aチームの優勝が決まっていて、先生や先輩たちはゴールを切ったアンカーの先輩の周りに集まっていた。ゴールした僕はその場にうずくまり、気道を確保して呼吸するのが精一杯だった。
Bチームは8区から変わらず3位。僕自身は区間4位。周りから見れば、ただの3位だった。

「ナイスラン」ゴール地点にいた僕に、仲間が声を掛けてくれた。
仲間の手にタッチし、先輩の元へ向かう。ようやく吹き出した汗に、9月の風は心地良かった。