Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

2009年12月

おばあちゃんへ

僕の一番古い記憶は、お母さんの背中から見た、おばあちゃんの家の明かりです。あたりは真っ暗で、水の流れる音が聞こえていました。
僕をおんぶしていたお母さんは、ホッと一息ついて、暖かい光の方に向かって歩きました。
おばあちゃんの家でコタツに入り、話しているおばあちゃんとお母さん。おばあちゃんは、時々強い声を出しながら、泣いているお母さんに話しかけていました。僕は、いつもとは違う雰囲気を感じながら、二人の横顔をジッと見ていました。何だか、いつも僕を叱っているお母さんが子供みたいで、ちょっぴり嬉しい気もしました。厳しいおじいちゃんの横でいつもやさしく笑っているおばあちゃんが、この日は、とても心強い、大きいおばあちゃんでした。

おばあちゃんにとって初めての曾孫を連れて行ったときは、少し記憶がまだらになってきた頃でした。「直樹の子だよ」と言うととても嬉しそうに笑って、キョトンとする息子を抱っこしてくれました。その時撮った写真を見ると、今でもとても嬉しくなります。あの子も四歳になって、健やかに育っていますよ。これからも見守っていてね。

白石に戻ってくる少し前に施設に行ったときには、もう僕のことは覚えていなかったね。あらかじめお母さんから聞いていたし、仕方が無いなと思っていたんだけど、東京に帰ってから急に悲しくなって涙が出ちゃった。おばあちゃんが悪いわけじゃないのに、やっぱり少し寂しくて。ごめんね。おばあちゃん。

七日の夜にお母さんから電話がかかってきたときは、何だかとても怖くなって、ブルブル震えるのが寒いからなのかどうか分からなくて、少し深呼吸したらやっと落ち着いた。病院でおばあちゃんに「直樹だよ」って声を掛けたら、少し落ち着いたみたいだったから、もう少し大丈夫かなと思って安心してたんだ。

次の日、おばさんからの電話に慌てて病院に行ったら、もう呼吸が止まっていて、でも額はまだ少し温かかった。
ふと見たら、おばあちゃんの目から涙がこぼれていたから、お母さんに僕のハンカチで拭ってもらった。
お母さんは、「辛かったんだね」って言っていたけど、僕は、声を出すことも体を動かすこともできなかったおばあちゃんが、最後に「ありがとう」って言ってくれたような気がした。全然会いに行けなかったし、全然何もしてやれなかったのに、ありがとうって言ってくれた。ごめんね、おばあちゃん。ありがとう、おばあちゃん。

おばあちゃんがお母さんに歌った子守唄「みかんの花咲く丘」を、僕も息子を寝かすのによく歌いました。春にまた、唄う相手がもう一人増えそうです。
いつかこの子達が、またその子ども達にこの歌を歌い継いでいくんだなあと思うと、おばあちゃんがずっと僕たちの側にいるような気がします。

僕たちと、これから生まれる子ども達を見守ってください。
おじいちゃんとは仲良くやってね。喧嘩はほどほどに。
ありがとう、おばあちゃん。

平成二十一年十二月十日
谷津 直樹