Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

あのアレをそうして。違う違うこう。そう。

先ほど、白石市内のスポーツ用品店「大庭スポーツ」にて縄跳びを購入。30分ほど跳びまくって飽きた様子。はあ。

親に休日は無い。息子が生まれて以来、平日仕事をしていた方がよっぽど楽だと何度思ったことだろう。
今朝も7時半に息子をたたき起こしスーパー戦隊を一緒に見ることから始まった。親は親でいつもよりは寝坊させてもらっているのだが、そんなにグダグダ寝ていられない。「日曜ぐらいゆっくり休ませてくれ」とはいつの時代の話なのだろうか。それからは、将棋をしたり建売物件の見学に行ってみたり図書館に連れて行ったり。さっきは一緒に縄跳びまでやりました。親はもうヘトヘトです。適度に実家の両親に預けて僕はブログにいそしんだり。そうでもしないと正直やっていけません。

ところで、子どもと会話するときにとても気にしていることがある。それは、「なるべく正確に物事を伝える努力をする」ということだ。
例えば、「何故夜9時に寝なくてはいけないのか」という子どもの疑問に対し、息子が理解できる単語を使ってできる限り正確に伝えるのである。

  • 食事によって得られた栄養を効率よく体に分配する
  • 休養することで体内の疲れを取る
  • 成長ホルモンの分泌を良くする

これらのことを、息子のボキャブラリーに変換して話す。

  • ご飯がエネルギーになって君の足や指に届くのは時間がかかるし、横になっていた方が速く届くんだよ
  • 運動すると筋肉が少し壊れるので、エネルギーを使って体の中の兵隊さんが寝ている間にそれを直してくれるんだよ
  • 背が伸びるのは横になっているときの方が伸びやすいし、壊れた筋肉を直すと少しずつ筋肉は増えてくるんだ
  • 体の中の兵隊さんが一番良く動けるのは10時から12時ぐらいだから、その前にぐっすり寝ると背も大きくなるし体も強くなる

なんて風に話している。正確かどうかはかなり疑問がある。何しろ親が正確な事実を知らない場合も多いのだ。だが、親が理解している範囲でとにかく正直に答える。要するに、「神様」とか「オバケがでる」とか「そうだからそうなんだ」とかいった風に、説明を放棄するのが嫌なだけなのだ。

小さい頃の僕はとてもウザイ子どもだったと思う。何せ、テレビを見ると理解できていないところが沢山見つかり、都度親に質問していたからだ。漢字の読み方や意味は簡単な方で、人物の相関や犯行の動機についての質問となるとかなり説明は難しい。親も苦労したと思う。適当にはぐらかしたことも多かっただろう。それだけに、僕は自分の子どもにはそうした適当な回答はしたくないのだ。

ところが、ところがである。そんなにすぐにボキャブラリーは出てこないのだ。5歳の息子が理解できる単語にすぐ変換できなかったとき、ついつい口からでるのは「アレコレソレドレ」「やる」「する」。最近特にこれらの言葉が増えてしまい、自己嫌悪なのだ。「アレをそうして」「これはこうやって」うわわわ。ダメだ・・・。理想は高くても、これじゃあ結局元の木阿弥だ。はあ。

こういう家庭環境が、もしかすると理屈っぽい子どもを育てるかも知れない。一方、多くの物事を正確に理解できる機会が増えるかも知れない。そんなこと関係なく、子どもの性格どおりの育ち方をするかも知れない。はっきり言って、どれが良くてどれが悪いのかは終わってみないと誰も分からないのだ。だけど、とにかく僕の気持ちとして、できる限り子どもには適当な理解ではなく正確に近い理解をして欲しい。そしてそうした説明を試みる行動こそが、子どもと本当に向き合っているという親を見せることであり、子どもの成長にとって大切なことなのではないだろうか。

そんなわけで、今夜も大河ドラマを見ながら息子の質問攻めに合う予定である。昔の慣習を理解させるところが一苦労なのだが、質問されることで自分の理解が深まったりするので一概に面倒とも言えないのである。