Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

幾重の思い出と一重の瞼

今日は仙台で会議と講習会があり、現在東北本線にて目下北上中である。

この時間の電車は独特の雰囲気がある。通勤ラッシュが過ぎ、2コマ目の授業へ行く大学生やラッシュを避けたサラリーマンか。いずれにせよ多くの乗客は20代から30代といったところだ。

僕も大学時代、よくこの時間帯の電車に乗り、そしてほとんど寝ていた。大抵は夜更かしして寝不足のまま乗っていたし、前の晩良く寝ていたとしても習慣が僕を寝るモードに突入させるのだ。時々、(たいていは途中の駅でトビラが開いたときに流れてくる冷たい/暑い空気によってなのだが)目を覚ましたときは、ボンヤリと外を眺めて、こんな景色を昔見たな、と懐古していた。
小学生の時は親と、中学・高校の時はチームメイトと一緒に電車に乗り北へ向かった。正午を目指して高く強く光る太陽と、それに照らされた家と田んぼたち。沈黙の車内に見知らぬ人たち。いつも同じだ。
記憶は幾重にも重なっており、「昔のことを思い出した記憶」をまた思い出したりする。均質化した、どこでも見たことのあるような景色に、幾重にも重なる思い出が宿るとは思えない。この昼間の電車のように、独特な世界だからこそ強い思い出が重なるのだ。
路地裏にある芝居小屋、帰り道にあった駄菓子屋、裏道に流れていた小川。そうした独特な世界は、その独特さゆえにこの世界から排除される傾向にある。僕たちが子どもの頃にすら、そうした世界は少なくなっていたはずなのに、今もまた失われている。

僕らは、こうした独特な世界を守るために、いったい何ができるのだろう。

そんなわけで、10時の穏やかな光が電車の窓を通して足元に降り注ぎ、僕の一重まぶたは今にも閉じそうに下がり続けている。おやすみなさい。