Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

で、このブログの本質って?

昨日何故か唐突に思ってツイートした。

naokiyatsu (谷津 直樹 - Naoki Yatsu)
数学って、物事の本質を見極める力を育てるための学問だったのか。何故か今、合点がいった。
about 19 hours ago from Echofon

大学で数学を専攻し、院まで行ってしまった男。教育実習で母校へ行き、実習生としては破格の授業時間数をこなした男。大学時代に教職の授業を取りきれず、社会人になって夜間大学に通った男。それが僕。
そんな僕が、「数学(算数)は、いったい何の役にたつの?」という子どもたちの質問に対して、納得する回答を聞いたことがなかった。
「論理的思考能力を育てる」
「証明力と予知力を養う」
そんな風に聞いたことがあったけれど、果たしてこの説明が小学生や中学生に納得できる回答かはかなり疑問だった。

しかし、この「ものごとの本質を捉える力」であれば、何とか小中学生にも説明できる気がする。「核心」とか「要点」とか、「一番大切なところ」という表現を使えば、充分通じるような気がしている。

もっと言えば、この「本質を捉える力の育成」は自然科学全般に言えることだ。物理だって生物だって、ものごとを科学的に見るというのは要するに本質を見るということだ。逆は何かというと、人の心。人文科学というのは、人の心を感じる力。歴史だって政治だって漢詩だって人の心の動きだ。これは複雑すぎて本質が定まらない。要するに答えが無い。だから推測するしかない。そういうものだと割り切って自分の心と比較し、同調したり共感したりする。これが人文科学だ。


例題:

タカシくんが8時に家を出ました。
お母さんが忘れ物に気づき、8時5分に自転車でタカシくんを追いかけました。
タカシくんの歩く速さが6km/時、自転車の速さが21km/時とすると、お母さんがタカシくんに追いつくのは何分後ですか。
また、それは家から何m離れたところですか。

数学が苦手と言う人のほとんどは、上のような文章問題に頭を抱える。特に速さと時間と距離の関係が絡んでくるとなおさら厄介だ。

距離=速さ×時間
時間=時間÷速さ

この公式をやっと思い出し、お母さんが追いかける時点でタカシくんが家から500m地点にいることは分かる。そしてお母さんが500mを進むのにかかる時間も分かる。
でも、その間にタカシくんはもう少し進んでしまっている。更にその時間タカシくんが進んだ距離と、お母さんがその距離を進む時間が分かる。
そしてその間に、タカシくんは更にもう少し進んでしまっているのだ。まるで、「アキレスと亀」のパラドックスだ。
ゼノンのパラドックス - Wikipedia

この問題の本質は次の二点だ。

  1. 「追いつく」とは、進んだ距離と経過した時間が同じこと
  2. 「追いつく」とは、相対的に距離の差がゼロになること

(1)の場合を見てみよう。
これが教科書どおりの考え方で、xやyといった変数を使って一次方程式をつくる。すなわち、

回答例(1)a

家から追いついた地点までの距離をxkmとすると、
タカシくんがこの距離を進む時間は(x-0.5)/6
お母さんがこの距離を進む時間はx/21
これが等しい→(x-0.5)/6 = x/21
x = 0.7
つまり追いついた地点は家から700m地点。掛かった時間は2分。

回答例(1)b

追いついた時間をy時間後とすると
この間にタカシくんが進んだ距離は6y+0.5
お母さんが進んだ距離は21y
これが等しい→6y+0.5 = 21y
y = 1/30
つまり追いついたのは2分後。家からの距離は700m。

(2)の場合はもっと簡単だ。

相対的な速さ15km/時で、お母さん出発時の距離の差500mを進むと考える。
かかった時間は0.5/15 = 1/30 つまり2分。
その間にお母さんは700m進んでいる。


本質さえ分かれば、問題は解ける。数学は、数字というピュアな抽象記号を使って問題の本質を見極める力を育成する。余計な情報をできるだけそぎ落とし、核心となる部分を見つけるのだ。そのためには、ピュアな抽象記号である数字が一番分かりやすい。

現実世界はこうはいかない。物理・生物・地学といった自然科学分野でも、実際の現象は様々な要因が絡み合って複雑だ。しかし、有益な現象は再現させ、無益な現象は再発させてはならない。そのために、絡み合った現象を一つ一つバラバラに分解して本質に迫る。
人文科学になるともっと複雑だ。文学・法律・経済・心理・歴史・芸術、すべて人の心が絡み合っているからだ。科学的なアプローチも時には行われるが、人文科学の本質は解明することではなく、共感することだ。


僕は昔から社会が苦手だった。何故なら、社会は色々なものを覚えなければいけないからである。何年に誰が何をした、この地方はどの作物が作られるのか、どの法律の何条にどう書いてあるのか。わー面倒。覚えるなんぞ面倒だしちっとも面白くない。

一方、数学は何も覚えなくて良い。本質を見極めることさえできれば、問題は解けるのだ。

社会人になって、いろいろ複雑な状況に対応するにあたり、「本質を見極める」ことの重要性をホトホト実感した。余計なノイズを取り払い、最も核心に近い部分を見出すこと。これほど必要な力は無い。
逆に、本質さえ見つけてしまえばそれ以外の枝葉はどうだって良い。先ほどの例題、僕が数学の先生なら、本質を理解してさえいれば、実際に2分とか700mとかいう答えを計算するまでも無く正解にするだろう。数学は、解答の正誤を比べる学問では無いからだ。

そう考えると、「新聞を読むことでどんな能力が育めるか」についても、これまで無視されてきた自然科学への効果を言及できそうだ。文系出身者が大半を占める新聞業界がなかなか気づけなかった点かも知れない。長くなったので、その話は後日。


そんなわけで、休日の午後だから〜と気を許して長文を書いてしまっている。仕事溜まってたんじゃ?と問いかける心を抑えるのは必死なんです実は。