Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

包丁とサンダル

1年ほど前だったと思う。


突然、取引先の部長さんが次週来店するという話が来た。しかも夜にだ。
僕と父は双方の顔を見合わせてビビる。何せ部長である。実質的な指令系統のトップに位置する人だ。しかも、夜に来るという。これは何かある。重大な何かがあるはずだ。
僕と父はあらゆる可能性を検討し、ひとまず理由として考えられる事項を3つから4つほどリストアップした。そして双方がそれらの事項に対する準備を始めた。資料の準備、従業員との話し合い、帳簿類の整理。
もう一つ大きな問題があった。宴席の場所である。来店する時刻からして、店で話す時間は無い。おそらくは宴席でその「何か」を切り出すのだろう。であれば、店は慎重に選ばなくてはいけない。

  • 確実にプライベートが確保できること
  • 料理は最高級のレベルであること

これは難問だった。
まず、プライベートが確保できる店というのは結構限られる。そして、そういった店は二ヶ月に一度の担当者との食事などに結構利用しており、担当者の直属の上司である部長さんをお連れするとなると、「いつもと同じ」というわけにはいかないのだ。
父はしばらく黙って考えると、ポッとある店を口に出した。
「やまかわ、そうだ山川がいい」


地図で調べてみると、確かに「ふぐ和食山川」との表示がある。その店は、白石市内の中心部、古くからある商店街から細い路地を入ったところにひっそりとあった。記憶を辿ってみると、看板は掲げてあるがいつも暗く、いつ営業しているのか僕も分からなかった。電話を掛けると、やけに明るい声が聞こえた。予約の旨を伝えると、とても腰の低い口調で御礼の言葉をいただいた。


いよいよ当日、部長と担当者を連れて「山川」に向かう。初めて見る、明かりのついた「山川」。他に客はいなかった。完全に貸切状態である。
決して、今風の小奇麗な店ではない。少し時代遅れのテーブル、擦り切れ気味の畳、色あせた座布団。主人は丸い頭を下げてにこやかに歓迎してくれた。厨房には、主人の他には誰もいなかった。


小さなグラスに瓶ビールを注ぎ合って乾杯。ややゆったりと、様々な料理が運ばれてきた。それほど変わった料理ではない。スタンダードな宴会の料理だ。しかし、その質素で確かな味は、素朴な店内の雰囲気に良く合っていた。


結局のところ、重大な話は何ひとつなかった。後日、この部長が別な部署に異動となり、担当部署としての最後の挨拶のつもりだったのではないか、ということだった。


主人は、料理を出すたびに詳しく解説してくれ、照れくさそうにはにかんで厨房へ向かった。その独特で人の良さそうな雰囲気に、緊張していた僕の気持ちもいつしか和んだ。


それから、「山川」の近くを車で通りがかるとき、主人の姿を見かけることが度々あった。道路を挟んで向かい側にある自宅と店の間を、サンダルとスウェットにドテラという格好でそそくさと駆ける。新聞代を払いに来ても、同じような格好だった。飾らず、気取らず、料理に信念を持ち、誰にもにこやかに接した。


山川正美さん、享年62歳。残った私たちに、味の思い出だけを残した、生粋の料理人である。
ご冥福をお祈りします。