Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

支え合うということ

貴方は、黒板の前に立ち、金八先生の物真似をした記憶はあるだろうか。
僕はある。結構たくさんある。そして大概は「え〜人という字はあ〜」と言いながら黒板に大きく「人」と書いた。二つの棒が人を表し、中央で支えあっているのが「人」という漢字なのだ、と長い髪を掻き分ける仕草をつけて言ったものだ。


全国からおびただしい数の毛布が、衣類が、生活用品がやってくる。コンビニのレジ脇から、街頭に立つ中学生の持つ箱から、チャリティーと冠されたイベントのチケット売り場から、多額の義援金がやってくる。どれもこれも善意の塊だ。見知らぬ被災者に向けた全国の人々の思いだ。


これは支え合いなのか?否、これは支援である。被災者に向けられた一方的な支えだ。文字にすれば丁だ。


人一人の力はとても小さい。僕のチカラなど、この地震の前にはチリのように微かなものだ。そんな僕が、一丁前に誰かを支えようとした。自分の考えられる限りの力を尽くし、誰かの笑顔を支えようとした。
ところが今僕は、何と、支えようとした誰かに支えられている。僕のささやかな支援を受け取り、前を向いて進む姿に、僕自身が支えられているのだ。
支え合うというのはこういうことだ。誰かを支えることは、実は結局のところ自分を支えることなのだ。


大切なことは、その事実をきちんと認識しておくことだ。誰かを支えることは、結局のところ自分のため、自己満足のためなんだと自覚することだ。決して自慢できることではない。人というのは、そうやって支えあってはじめて地面に立ち続けることができるのだ。