Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

大言を吐き後で後悔するエントリー

今回ほど防災が見直される機会は、今後もそう無いだろう。何といっても、津波に対する緊急情報の伝達、正しい避難先の共有、避難経路の確保は最も優先される検討事項だと思う。


しかし、M9.0の大地震はあらゆるライフラインを完全に破壊した。それは、最も大切な「情報」の断絶を意味する。携帯電話が「掛けても繋がらない」ではなくそもそも「電波を受信できない」状態に陥り、学校では校内放送が使用できず、ラジオで流れる情報は何の役にも立たなかった。携帯電話が繋がらない、大音量での放送が使えない、ラジオ局に有効な情報が入ってこない、このような状況を想定してなおかつ人の命を守るために、どんな策があるのだろう。
人類として、日本人として、あらゆるテクノロジーを駆使してこれに立ち向かうしかない。全く新しい防災情報システムを構築する以外に策は無いと思う。そして、防災情報システムはどれだけの状況を想定するかにかかっている。それでも不測の要素は必ず存在し、それに対する修正を余儀なくされるのだ。フレキシブルに状況に対応できる、柔軟なシステムが求められる。


なおかつ、そのシステムは日常的にそばに居る必要がある。常々触れ合っているものでなければ、極限状態に冷静に扱うなど到底無理な話だ。それはソーシャルネットワークとの連携も欠かせない。ソーシャルネットワークの生み出した革命とは、世界との繋がりを常に側に置くことを成し遂げた点だと思う。


今回、情報が最も必要だったのは津波を受けた地域の人々だった。津波から避難するために情報が必要だったのはもちろん、津波を免れた人々の中にも情報からの孤立によって命を落とした方が存在している。内陸部でさえ、震災翌日に新聞が届いたことで安心感を得た人がたくさんいる。情報が届くという事実そのものが必要なのだ。支援物資の中で最も優先すべきなのは「安定した情報ルート」なのである。


誰が、これらの問題を解決できるのだろう。
まずは、大規模な防災システムに関する知識と経験を持ち、新たなる災害へ向けた新システムの構築をマネージメントできる必要がある。そして、ソーシャルネットワークの役割を理解し、その有用性と危険性を理解した上で防災とのコンビネーションを考えなくてはいけない。さらに、情報そのものの大切さと共に、人々が安心感を得るための血の通った情報ルートの必要性を理解し、構築しなくてはいけない。


僕になれるか?