Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

「叱る」への6年

昨日、6歳の息子を叱った。


息子をこれほど激しく叱ったのは初めてだと思う。昨日目撃した息子の言動に、著しい問題を感じたからである。息子の不安定な倫理観に刺激を与える機会であり、かつ見過ごしてはいけない事態だと思ったのだ。そして、僕の言っていることを正確に理解し対処できるだろうという見込みと、僕の倫理観に息子は同意できるだろうという自信もあった。
結果、息子は激しく泣き、自分を守るために僕を責めたものの、徐々に自分の責任であることを理解し素直になることができた。自分の言葉で相手に謝意を示し、幼稚園に立っている日蓮聖人の像に向かってしばし手を合わせることができた。分かっているんだろう。分かっていてできない時がある。それは甘えであり、自分で自分を律するための倫理観が確立出来ていない証拠である。
息子が電話する間、その後僕に抱きついた時、そして日蓮聖人に手を合わせている間、僕はこぼれそうな涙を止めるのに必死だった。父親として、息子の倫理観の柱として、泣くわけにはいかなかったのだ。


叱ることはとても大切だ。世の中に絶対にやってはいけないことがあり、それは他人の目ではなく自分自身の倫理観に基づいて制しなければならない。6歳という時期は、倫理観を養う上でとても重要な年齢だ。安定した倫理観を育まなければならない。キーポイントは信頼関係だ。


子どもは、自らが信用する基準から倫理観を取り込む。日本においては、多くの場合その基準は親だ。親との信頼関係が強いほど、親の倫理観に同意しそれを自らの倫理観として保存するケースが増える。宗教がそれを補足する。信頼関係が低い場合、数字や成績、賛美といった外的評価に頼らざるを得ない。それは、もはや倫理観では無いのだ。


僕が6歳の息子を叱ることができたのは、6年間息子と寄り添い続けたからだった。完全にできたわけではないし、まだまだ未熟な父親だったけれど、息子の言葉を聴き、自分のことのように一緒に考え、できる限り息子のことを考えて行動したつもりだ。例え保育園の息子から遠く離れて働いていても、息子の笑顔を見るためにどうしたら良いか常に考えていた。


実は、子どもを「叱る」ための準備は、生まれてすぐに始まっているのだ。