Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

カメハメ波を打てるか

あなたは、かめはめ波を打てるだろうか。あるいは本気で打とうとしたことがあるだろうか。


僕はある。しかも、1年に1回程度はチャレンジしている気がする。なんだか無性にチャレンジしたくなることがあるのだ。
しかし、残念ながら、今まで1度も成功したことがない。


何しろ「本気」である。
まずは打つ方向が重要だ。もしかめはめ波が打てた場合に、大事なものが壊れたり火事などになっても困るし、何しろ誰かにあたって怪我でもされたら大変だ。僕はいつも窓の方を向き、となりの家の屋根に当たらない程度に上に向けることにしている。これなら壊れても窓ガラス1枚程度だし、火事や怪我なども充分な確率で避けることができる。また、背後にクッションなどがあることも重要である。反動で後ろに飛ばされる危険もある。
そして、自分の想像できる限界までエネルギーを両手に集中する。呼吸が大事だと意識を呼吸に向けたこともある。大切なものを奪われたことを想像して怒りの感情を高めたこともあるし、自分の中では「空」という状態になろうと努めたこともある。
それから中腰にかがむ。なるべく体がぶれないよう、しっかりと安定した体制を取るのだ。
もちろん、声はできるだけ大きく出す。か〜め〜は〜め〜 はーーーー!!!


今のところ妻子がいないときを見計らって実行しているが、いつか現場を見られる日が来ると覚悟はしておく。


そんなチャレンジを、あなたはしたことがあるだろうか。もちろん、かめはめ波でなくてもよい。テクマクマヤコンでも、パルプンテでも、ライダー変身でも何でも良い。とにかく本気で、周囲からは「無理」と言われることにチャレンジしたことがあるだろうか。笑う方も多いと思う。むしろ大いに笑うべきだと思う。実際、自分が本気でかめはめ波を出そうとしているシーンを客観的に見ると、かなり面白いのは間違いない。
でもね、これは僕なりの反骨精神なのだ。


僕は、「無理」という言葉が大嫌いである。実現が困難な事象に対して「無理」と決めつけてしまうのは、思考停止に見えてしまうからだ。同じように、何かを「間違っている」と決めつけることも大嫌いである。
確かに無理かもしれない。間違っているかもしれない。でも、それを決めつける前に、本当に可能性が全くのゼロなのかを本気で考えたのか?考えた末に出した結論なら受け入れられる気がする。しかし、世の中に溢れる「無理」と「間違っている」は、充分な検討を経たものとは言い難い。
決めつけるのは嫌だ。無理だと判明するまでチャレンジしたい。間違っていると判明するまで突っ走ってみたい。やってみないと分からないじゃないか。もしかしたらできるかもしれない。正しいのかもしれない。何が無理で何が間違っているのかを本当に理解するなら、やっぱりチャレンジしなければいけないのだ。
無謀と言われても、今それをやらずに何をやる?


初老と呼ばれる年齢になったとき、自らの半生を振り返ってどう思うだろうか。安定はしていたがつまらない人生だった、でもそれで良かったんだと自分に言い聞かせ、若者が安定さを求める姿に自分を見るなんて、そんな人生は嫌だ。若者に向かって「もっと色々なことにチャレンジしなさい、失敗したっていつでもやり直せるんだから」なんて偉そうに言いたくない。「僕はチャレンジしたよ。君たちは好きにすればいい」そんな態度でいたい。


だけど、どうしても無理なことがある。残念で仕方がないが、最初から「無理」と言っていた人が正しく、僕が間違っていたことがよくある。
そんなとき、僕はかめはめ波を打ってみる。本気で打ってみる。どうだ。出るわけ無いと思うだろう。そう、出ないさ。無理に決まってる。でも本気だ。本気でやるんだ。君にはできないだろう?
君たちは言った。結果が全てじゃない、プロセスが大事だと。人間の美しさは、出来上がった作品ではなく、迷い悩み苦しんだその経過にあるのだ。


すなわち、僕には初めから諦めることは無理だし、ダメだって決めつけることは間違っている。