Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

祖父の手相

僕の右手。

どうも、珍しい手相だそうだ。有名人に多いらしい。
そういえば、確か父方の祖父も同じような手相だったことを思い出した。


僕の祖父は決して有名人ではない。


白石の片田舎に生まれ、憲兵として樺太に渡り、終戦後捕虜となってシベリアに抑留され、帰還後は舅の家業である新聞販売業に一身を捧げた男だ。父は樺太で生まれ、ずっと祖父の実家に預けられて育った。祖父が帰還するまでの父親不在の数年間は、父にとっての「父親像」に大きな影響を与えている。それは少なからず、僕の幼少期の寂しい思い出にも繋がっていた。


祖父は、純朴で頑固、物静かで不器用極まりなかった。幼い僕の目には、酒以外に何を楽しみに生きているのか分からなかった。顔なじみの家に押しかけてはベロベロになるまで飲み、家でも夕方から杯を傾け、孫に何度となく同じ話を繰り返していた。そして、大腸ガンを患い術後の僅かな要介護期を経て、10月のある日、繁忙期である正月を避けるようにあっけなく死んだ。
祖父の目はいつも穏やかに僕を見守っていた。夜中遠方へ出かけた僕と母を心配して外で待っていたという祖父のエピソードは、祖父の心にぬくもりが宿っていたことを物語っている。


今日、実家の茶の間を片付けていると、祖父のものらしいボール紙の箱を見つけた。紐で十字に縛ってあり、黒のマジックで大きく「絶対の品」と書かれていた。中には、古い手紙や書類がぎっしりと入っていた。樺太の知人からのハガキ、曽祖父が取引先に向けて祖父を紹介した手紙、ほとんどが達筆過ぎて読めない。


不思議な文書を見つけた。古い文書の中でもひときわボロボロである。


それは、父の通信簿だった。


白石小学校2年、とある。成績は3学期の箇所にしか書かれていなかった。これは、父が、祖父の実家近くの小学校から、新聞屋がある白石の小学校に転校した年であることを示している。シベリアから帰還した祖父が、父を連れて白石の新聞屋に来た年のことだ。祖父は、そのときの父の通信簿を、実に50年以上も大事に大事に保管していたのだ。
祖父がどんな気持ちでこの通信簿を保管していたのか、僕には分からない。


でも、もし自分が祖父の立場だったら。
生まれたばかりの息子を実家に預け、一人シベリアで地獄のような日々を生き抜き、帰ってきたら息子はすでに小学生だった。そして、生きるために自分の妻の実家業を継ぐことに決め、息子とともに見知らぬ土地へ移り住む。妻の実家ではきっと肩身の狭い思いをしただろう。
何より、息子を気遣ったに違いない。友達のいない土地に学期の途中から来た息子。さぞかし可愛かったはずだが、不器用な祖父は、そして父の幼児期から小学校までの貴重な時期に側にいることができなかった祖父は、どう接して良いのか分からなかったのだろうと思う。


祖父は、そんな思いで通信簿をひっそりと手元に残し、何度も何度も見返しては日常の仕事に戻っていったのだ。戦後の復興とは、こうした祖父のような偉大な人間たちによってつくられたものなのだ。


僕もそうなりたい。
自分の運命を呪うのではなく、目の前の事実を勇気と覚悟を持って受け止め、悲しみと慈しみをそっと心の奥にしまい、毎日を明日に向かって生きる。そんな偉大な人間になりたい。
この手相がもし僕の運命に何か影響を与えるのだとしたら、願わくば、祖父のような人間になるために手を貸して欲しい。