Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

汚泥の彼方に

昨日、岩沼市の災害ボランティアに参加してきた。


ボランティアの流れや要領、仕事の内容などは、一昨日の「僕が災害ボランティアへ行こうと思った理由」を参照のこと。事前に調べただけあって、書いたまんまだった。
もちろん、行ってみて分かったり感じたことは本当にたくさんある。たくさんありすぎて書く手が止まってしまうぐらいだ。ひとまず、現時点で書ける分だけ書いておく。これらの情報が、ボランティアに興味を持つ人の背中を押す一助になれば、とても嬉しい。

他県参加者が多い

おおよそ10名程度のチームに分かれて2チームずつバスに乗り込み、ボランティアセンターから現場まで移動する。その10分程度の時間に、隣り合わせた人などと少し話をする機会があった。僕が聞いた限り、宮城県内の方はお一人だけだった。南から宮崎、岡山、和歌山、神奈川、東京、埼玉。県内に実家があるとか、そうした縁がある人もいなかった。せいぜい友人がいるとか、宮城以外の東北が実家だとか、そんなレベルだ。
宮城県内の人が少ないのは何故だろう?岩沼が少ないだけなのかな?石巻や南三陸気仙沼に集中しているのだろうか?それとも、僕が考えているよりも内陸の被害が大きく、ボランティアに行く余裕が無いのだろうか。うーん、分からない。身近で縁もゆかりもある人の方が体が動くような気がするけれど、違うのだろうか。

先は果てしない

午前と午後それぞれ1件ずつ作業したのだが、まだまだ先は長い。永遠のように遙か遠い。大のオトナ10名でも、2時間でやれる作業量は限られている。そのうえ、その日のボランティアは午前も午後も60名程度で、訪れたお宅は述べ15件。たった2時間の15件だ。訪れたお宅でもまだまだ作業が残っている上に、周りを見渡せば手付かずの家、ビニールハウス、畑。まだ埋まってる車も見たし、グシャグシャになったビニールハウスとかどうするんだろう。

重労働だ

ボランティアが担当するのは「重機ではできない作業」。僕が担当した2件とも、依頼内容をざっくり言えば「庭の木をできる限り守りながらゴミや汚泥を掻き出す」だったのだが、中腰になって泥を掻いたり掻いた泥を持ち上げて一輪車に載せたり汚泥が詰まった土嚢を積み上げたりと、ここここ腰が。。。
それでも一度作業が始まってしまうと、辛さを忘れたように目の前の作業に没頭しちゃうのだけれど、リーダーを担当した方はきっちり1時間で休憩を入れる。なるほど、終わってみると疲れはガクンとやってくる。感情に任せて頑張り過ぎると、おそらく持たない。あるいは日常生活に支障が出るおそれがある。それは最も避けるべき事態だ。ボランティアに一度来ていただいた人には、できるだけ長期間に渡って参加して欲しい。肉体的にも、経済的にも、自分の生活の中にボランティアを組み込んで欲しい。確かに歩みは鈍いのかもしれないが、そうやって粘り強く人を繋げていくことが大切だ。ボランティアセンターで笑顔を振りまくスタッフ(これもボランティア)を見て、ああそういうことかと思った。

ニーズを把握するって難しい

依頼主のお宅に到着すると、早速リーダーがヒアリングを開始する。ボランティアに何をして欲しいのかを、具体的に確認する。どこで、どれを、どうやって、どこに。確認後、リーダーが采配する。作業を分かりやすくメンバーに伝え、複数の作業があれば分担することを決め、スコップなどの用具が不足していればセンターに要請する。
ところが、途中で作業内容が変わってしまった。どうも原因は2つあったらしい。

  1. 前回のボランティアがどの程度まで作業を完了させたかが不明確だった
  2. 依頼主のご家庭内で、ボランティアにお願いする作業の優先度が違っていた

つまりは、依頼主自身が状況を正確に把握できていない場合がある、ということだ。これはとても悩ましい問題だ。
現在多くの支援団体が頭を悩ませているのは「現場のニーズとの不一致」である。支援する側にとって、善意の押し付けは何としても避けたい。しかし現場のニーズを把握することは、少なくとも机に座ったままではダメだ。その解決方法として、「つなプロ」のような団体が現地でのヒアリング(アセスメント)を通じてニーズを拾い上げている。
ところが、被災者自身が自分のニーズを把握できない場合がある。もちろん必要な物はたくさんあって、ありすぎて、何を優先すべきかが分からなくなってしまうのだ。これはとても拾いづらい。ましてや、東北から遠い地域にいる支援者に対して、現場でどんなものが必要なのかを説明することはとても困難だろう。

もっと早く来れていれば

汚泥には、ありとあらゆるものが埋まっている。TSUTAYAのケースに入ったDVD、分厚いカタログ、未開封の浴衣。ほとんどが泥だらけで、原型が崩れている。その中でも目につくのは、ほぼ正確に長方形を維持した真っ白な紙、写真である。
拾いあげて、一体どんな思い出の写真なんだろうと裏返してみる。
白紙だった。
津波の水なのか、この3ヶ月の間に降った雨なのか。インクは溶けて消え去り、真っ白な写真用紙だけが残っていた。残った泥に、微かな色を見つけた。オレンジ色のような色だった。誰の、どんな思い出だったのだろう。もう少し前に拾ってあげられれば、もしかしたら誰かの大切な写真を救えたのかも知れない。
僕は頭をプルプルと振って、次の作業に向かった。

勇気をくれた

疲れ果ててバスに座り、ふと窓を見るとこんなものが貼ってあった。

「ボランティアバス」の「ボ」の紙の裏に、全国津々浦々から集まったボランティアの皆さんの落書きがあった。ちょっと笑えるものもある。何だかとっても嬉しかった。ここに座り、同じようにホッとした仲間が、全国にたくさんいるのだ。ああ、日本もまだまだ捨てたもんじゃない。このときばかりは、そんなふうに思えた。

モヤモヤとは

僕が抱えていたモヤモヤというのは、一言で言えば「当事者意識の欠如」だった。今になって当事者意識という言葉を思いついた。僕はいつだって大事なことを後で思い出す。
「『誰かがやるだろう』ではなく、いつも『僕がやる』という気持ちでいなさい」
小学生のころ、先生からはそんな風にいつも言われていたように思う。大学生のとき、師匠がこんな風に言っていた。「日本がダメになったのは俺が悪いんだ」。僕にはちっとも理解できなかった。何故師匠が原因になるんだ?今思えば、それは自分の問題として抱えるということだった。当事者であるという意思表示だったのだ。
津波の被害、地震による経済的打撃、東電と政府の見苦しさ、放射線に怯える親たち。それを、僕は日本人全体の問題だと思ってる。つまりは、僕の問題だと思っている。僕が、何とかしなくちゃいけない。もちろん僕だけじゃ何もできない。だから、多くの人に協力を求める。但し、心で繋がり協同できるのは、僕と同じようにこの問題を自分自身の問題と感じている人だけだ。
批判だけなら誰だってできる。静観するだけなら虫ケラだってできる。僕が、あなたが動かなければ、何も変わらない。
だけど、僕は、復興できる、明るい未来をつくることができると信じている。
何故なら、きっとあなたも心の奥では「僕でもやれる」と思っているからだ。