Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

泥臭い美しさ

昨日のブログで、ソーシャルネットワーク上でのコミュニケーションにおいて重要なことは、リアルな対人関係と同じ誠実なコミュニケーションだと書いた。すなわち、ソーシャルネットワークサービスはリアルな対人関係を補足するツールであり、結局のところ人と人との信頼関係を構築するのは、今も昔も地道で泥臭いなことなんだと。


今日、ある告別式に出る機会があった。告別式とは独特な儀式だ。多くの方が故人やご遺族を悼み会場へやってくる。住職による読経のあいだ、故人を想い、遺族を想い、花に掲げられた名前を読んでその人間関係を想う。その後、弔辞の朗読がある。
この弔辞がいわゆる泣きポイントで、親しい間柄の方が涙ながらに話すほど感動的なシーンが生まれる。僕も母方の祖母の告別式で弔辞を読んだ。途中涙で声が震え、うまく読むことができない。だが、それが偽りのない演出となり、会場を悲しみで包みこむ。


弔辞を読むことについて、はじめは正直なところ抵抗感があった。告別式の「泣きポイント」を演出するための操り人形になったような、亡くなった祖母に対して偽りの自分を見せてしまうような、そんな気がしたからだ。でも、伯父からのたっての依頼だったし、周りの親戚も僕が読むことに期待しているように見え、思い切って引き受けることにした。
あれこれと文面について悩み、一向に筆が進まなかった。悩んだ末に、僕は演出家になることをやめた。会場を悲しみに包めなくてもそれで良い。僕はありのままの僕を祖母に見せればいい。そう決めると、次々に祖母との思い出が溢れてきた。初めは順不同に思い出したエピソードを、丁寧にメモしていった。それぞれの思い出を時系列に並べ替えると、いつの間にか弔辞はできあがっていた。
結果、僕はそのエピソードを読みきれず涙が溢れ、会場を涙で包むことに成功してしまったのだ。


そう、演出は必要なかったんだ。僕が僕のまま、素直な気持ちを表現すれば、それだけで良かったんだ。そう感じた。


今日、友人代表として弔辞を読んでくれたK君の言葉も、平坦で飾らない、素直な言葉だった。そして僕と同じように言葉に詰まり、言葉が気持ちでいっぱいになった。とても美しかった。どんなに飾られた、どんなに比喩された言葉よりも美しかった。それは、彼が彼のまま、素直な気持ちを言葉にしたからだった。


人に共感を与えることは、決して口先で飾ることじゃない。ケバケバしく化粧され、見た目の美しさだけを狙った言葉には、僕らはもう感動しない。共感を覚えることはできない。そして、信頼することができない。
平坦な言葉でもいい。泥臭い言葉でもいい。その人がその人の心を素直に表せば、それで良いのだ。本当の美しさとは、その心にあるのだから。