Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

僕はいったい何を

事実は小説より奇なり、というけれども、同じようなエピソードでも事実だっていう事実が奇たる所以であって、事実だという事実がなければ、そのエピソードはやっぱり架空のことなのね、という意味で奇ではないのです。僕はいったい何を言っているのでしょう。
僕は、現実はスゴイということを、改めて感じているのです。現実はスゴイな。想像もつかないし、そんなことが本当にあるなんて、ということがたくさんある。元々あったんだろうけれど。世界中の戦争や、原爆や、テロや、大事故や、そんなことはこれまでたくさんあったわけで、紛れもない事実だったんだろうけれど、僕にはその実感は皆無だった。完全に他人事だった。無関心だった。かつての僕の想像力の無さや、関心の低さにはほとほと呆れてしまう。僕はいったい何を考えていたのでしょう。


今、僕が戦っているのは放射性物質でも、福島第一原子力発電所でも、東電でも、自治体でも、日本政府でもない。僕が戦っているのは、「情報」だ。それも、間違いや誤解が含まれていたり、いたずらに人々を恐怖に陥れたりしてしまうような危険な「情報」だ。
自分の精神をしっかりと持ち、あらゆる情報を正確に捉えることから始まる。恐怖や不安に打ち勝つ心の強さを、僕はどうにかひねり出してその「情報」の前に仁王立ちする。そして情報をよく確かめる。文章の仕組みに騙されることなく、確実にその要旨を掴み、事実かどうかをきちんと調べるのだ。間違いや誤解を発見したら、まずはそれから自分を守ろう。僕だけではなく、周りにいる全ての人をその間違った情報から守るのだ。否定や反論は良くない。論破しても相手は絶対に負けない。何故なら、その「情報」は既に、まるで森に降った放射性物質がその生態系に組み込まれるように、インターネットという情報の生態系の中にしっかりと根を張っている。一部を潰したからといって息絶えることはない。かといって、ずっと最前線で時代を謳歌するわけでもない。それは、後から後から際限なく発生する情報によって、深く深く埋まっていく。そうしてその「情報」の危険性が薄まるのをジッと待つしかない。


そして何よりも恐ろしいのは、僕自身がその「情報」の発信者となりかねないことだ。それは事実なのか?正確な言葉なのか?誤解していないか?曲解していないか?この言葉は本当に相手に届くのか?相手は誤解しないか?相手が「情報」の発信者とならないか?


だが、僕はその恐怖に負けず、言葉を振り絞って発信しようと思う。何故なら、僕らは信頼関係で結ばれなければいけないのだ。信頼関係で結ばれなければ、この、小説をも超える奇なる現実を乗り越えることはできない。だから、東電の社員とも、下請けの社員とも、自衛隊員とも、自治体の職員とも、首長とも、官僚とも政治家とも、与党とも野党とも、韓国人とも中国人とも、信頼関係で結ばれなければいけない。争っている場合じゃないんだ。


失敗もするだろうけれど、今発信しなければ、きっと僕は将来こう思うだろう。
「僕はいったい何をしていたんだろう」と。