Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

ロンリー論理

論理というものは、絶対ではないのだ。おそらく、論理的に考える人ほど、論理が絶対的なものだと勘違いしやすい。論理的に系統立てて考えることが正しく、それをきちんと説明すれば誰もが同じように理解できると信じてしまう。僕もそうだ。なるべく気をつけてはいるけれど。
ところが、多くの場合、論理によって人間は動かない。いくら系統立てて論理的に説明されても、それを説明者と全く同じように理解することは不可能である。ましてや、自分がこれまで思っていたことと違う内容が正しいと説明されても、すぐには納得することができないし、それによって自分の意見を変えることになかなか踏ん切れない。すなわち、「論破」によって人は他人を打ち負かすことはできないのである。


但し、多くの物理的事象がこうした論理的な手法によって説明されることも確かである。自然科学とはそういうものだ。A=B、かつB=C、ゆえにA=C。それは誰も疑いようの無い事実なのだ。反論は、必ず論理的な手法によって否定される。例えどんな地位と名誉を誇る科学者でも、論理的な否定であれば絶対に受け入れ、納得せざるを得ない。それが自然科学に従事する人間が守るべき最低限のルールである。


我々、特に自然科学分野に一時期でも従事したものがきちんと認識して置かなければいけないのは、そのルールは必ずしもこの世界全体のルールではないことである。多くの人が、そんなルールに従って生きてはいない。そこには、感情という非論理的なファクターが深く関わっているからである。おそらく、それこそが人文科学が分析しようとする分野であるし、文化や芸術によって表現されうる人間の人間らしい部分なのかも知れない。


従って、いくら東京の放射線量値が小さく健康に与える影響がほぼゼロであっても、それを論理的な説明によって全員が同じように理解することは不可能なのだ。例え確率が小さくても、発ガン確率が微量にでも上がる可能性がゼロではないのであれば、それを怖いと感じ、自らの防護策を調査し、身近な人々にその危険性を誇大に伝えたとしても、そうした感情をきちんと理解するべきだ。特殊な細菌が放射性物質を分解し、波動があり得ない物質を生成し、福島の土を服用することが健康への近道だと信じていても、それを論理的に反論するだけではダメなのだ。


感情をきちんと理解する。小さな子どもを持つ親や、妊娠を考えている女性の気持ちをきちんと理解する。人間的に信頼している人が発する非科学的な論理に、盲目的に共感してしまう気持ちも理解する。そして、自分がまずは信頼されよう。信頼関係を築こう。その中で、お互いの感情を理解しつつ、冷静に事実を見つめることのできる時期を待とう。


これは、決して放射線に関することだけに限らない。「インターネットは怖いものだ」「妊婦はたくさん食べなくてはいけない」「悪いことをするとバチがあたる」どれもこれも迷信だ。しかし、その迷信の中に、これらが伝わり広がっただけの理由がある。それらを信じ、他人に伝えた人の感情がある。
全てを否定しても仕方が無い。最低限の個人情報を保護し、妊娠中はバランスの良い食事を摂り、子どもたちは自らの心に倫理観を持たねばならない。


そう。放射性物質はなるべく避ける方が良いことだけは、誰もが認識する事実なのだ。