Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

江戸川コナンから始まるソーシャルネットワーク論


江戸川コナンは「真実は一つ!」と言ってはいるけれど、厳密に言えば真実は一つではないわけです。例えば上の写真。秋を感じさせる澄み渡ったキレイな青空に爽やかさを感じる人が多いと思うけれど、井上陽水に言わせれば「青空、ひとりきり」なわけです。(井上陽水を引き合いに出すのはちょっと違うかも知れない汗)
このところネットでも話題になっているこれについても、「『東北の農作物はダメ』などと、なんて酷いことを」という捉え方がある一方で、「調査しない以上はリスクを侵すことはできないのだから、土壌も含めて調査し安全性の確認できたもの(あるいはその周知も含めて)を出荷すべきであり、調査への着手にまごついている政府を非難している」という見方もある。僕自身はその番組を見てはいないし、武田教授に対して思い入れも批判的傾向も持ち合わせてはいないけれど、こうしてその人の置かれた立場や思想などによって捉え方が変わってくるというのは良く分かる。僕としては、捉え方が複数あるという時点で、武田先生の今回の発言は科学者として不十分だったんじゃないかとは思うけれど。自然科学というのは、観察する人によって解釈に個人差が出てはいけないわけで。もちろん今回の対象は武田先生の考え方であるから、自然科学で扱う事象とは少しことなるのだけれど、姿勢としてね。


ところが、この「できるだけ正確に伝える」ということがとても難しい。というのも、前出のように立場や思想などによって人はそれぞれ受け取り方・解釈が異なるわけで、もちろんそれが多様性ということなのだけれど、「正確さ」が失われないように伝えるためにはとてもたくさんの付加的情報を付け加えなければいけない。そうすると、情報の総量はとても増えてしまい、核心がぼやけ、受け取る側の負荷も大きくなる。前提条件を語るだけで日が暮れてしまう。それではとても時間もエネルギーも足りない。
本来は、そこがソーシャルネットワークの出番で、常日頃自分がどんな立場でどんな考え方かを公開するとともに、関わりあう人たちの立場と考え方を知っておくことができる。投稿された文章、写真、場所、「いいね!」は、まさにその人のプロフィールであって、蓄積された自己紹介なのだ。だから、いざ悩ましい(受け取り方が複数発生しそうな)問題を共有したいと思ったときに、非常にスムーズに相互理解に進むことができる…はず、なのだけれど。
どうも、そういったパーソナルな情報の交換の蓄積という使い方が、現時点での日本のソーシャルネットワーク上では希薄なような気がする。実名が必要なFacebookよりも、匿名で登録できるTwitterや、それ以上に匿名性がスタンダードな2chを好む人も多い。別に匿名での情報交換を否定しているわけでもない。匿名でしか投稿できない情報もあるだろうし、匿名だからこそ気軽に利用できるというメリットもあるだろう。
要するに何を言いたいかというと、個人的な情報の交換がなされていない、ほぼ見ず知らずの関係であるTwitter掲示板上で、複数の勢力に分かれて食い違う議論を繰り返し、お互いの罵倒にまでエスカレートするというのは、何とも不毛だということだ。もちろん、そうした議論によって新しい見方やアイディアが生み出される可能性もあるとは思うけれど、確実に言えることは、この状況下では絶対に相手を論破することはできないし、自分が論破されて剣を鞘に収めるといったことはあり得ないということだ。


原発問題をきっかけに、Twitterがそうした激しい議論の場と認識されてしまうことはとても悲しい。リアルにせよバーチャルにせよ、ソーシャルな「場」というのは、意見の対立するチームが乱立するだけではなく、人と人との温かくて和やかな連結の場でもあるはずだから。