Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

ソーシャル・アクティビティ

今日数回にわたってツイートした件を改めてまとめてみる。


これまで、とは言ってもおそらく数年前あたりまで、何か「アクションを起こす」というのは主に「組織化する」ことが前提になっていたと思う。
『やあやあ町の活性化が必要だよね。ここで大きめのイベントを開催しようじゃないか。うんじゃあ実行委員会を組織しよう。』
で、組織を立ち上げるにあたり面倒な仕事が事務局という名の実質的な管理者のもとに降りかかってくる。名称・活動指針・会費・組織体系・意思決定手順・連絡網・例会・入退会規約、などなど。もちろんそういう仕事に長けた人というのは少なからずいて、仕方ないとは思いながらもそういった細々した仕事をすることになる。
ところが、これが2年、3年と続き、気づけば10数年経ったところまで継続してくると、組織は「存続すること」が一つの目的になってしまう。組織の中に、会員の増加を推進する委員会が設立してしまうこともある。法律の改正によって納税が必要となれば、何とかして納税しなくても良い存続の道を探る。またまた委員会ができて、その対策本部となる。
そんなとき、入会を勧められたある若者はこう感じるわけだ。「この組織は一体何のためにあるのだろう」と。
そもそもの目的だった「アクション」に、一体どれだけアプローチできているのだろう。


別に悪いことでも無かったのだろう。そういった状況になるのは、好意的に見れば致し方ないことだ。組織の発足後数年は、本来のアクションに注力し、それなりの成果を挙げた事例も多かったと思う。会社も同じだ。どうしても活動がマンネリ化し、本来の理念が薄まってしまうことがある。金銭的拘束力が無く、ボランティア精神によって繋がった組織であればなおさらだ。


では、昨今はどうだろう。ソーシャルネットワークの普及によって、このアクション=組織化というパターンから逸脱するケースが散見されるようになったように感じる。代表的なものは、中東に発生した政体の革変だ。チュニジアやエジプトの革命において特徴的だったのは、それまでの革命と比較すると改革派にカリスマ的な中心人物が存在しない点だ。レーニン毛沢東がいない。市民がそれぞれに政治体制への不満を持ち、変えようという考えに共感して行動した結果、大きなうねりとなった。そこに、TwitterFacebookなどのソーシャルネットワークが情報交換の面で大きな役割を果たしたと言われている。
もちろん、実際にはソーシャルネットワークの効果は局所的だったり、小さかったりしたかも知れない。我々が思うほど、重要な役割を演じていたわけではないかも知れない。しかし、あるカリスマ的指導者や厳格な思想などを中心として組織化してきた従来の革命スタイルには、どうにもソーシャルネットワークは相反するような気がする。ソーシャルネットワークの使用が部分的にも認められ、若干かも知れないが改革派の情報交換手段として有効だったとするならば、この革命はやはりこれまでとは全く異なるタイプの革命だったと言えると思う。畏敬や恐怖などにより縛り付けるような組織のあり方ではなく、それぞれの自由を保持したまま“共感”によって繋がる、組織というよりは仲間という感覚の集まり。


テーマを持ったコミュニティではなく、共感で結ばれたネットワーク。
パブリックな大人のビジネスではなく、プライベートな仲間とのアクティビティ。
それが、ソーシャルネットワークが普及する時代の新しいアクションのスタイルになるのではないかと思う。


カタチなんてどうだっていい。熱い心を持つのなら、それに従って動けばいい。共感してくれる仲間と進めればいい。もしその活動の規模が大きくなり、組織化が必要になったときに、初めてカタチを築けばいい。
そんな風に動けたらいいなあ。