Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

生活と仕事と我が家と近所

Facebookにタイムラインなる機能、というか設定のようなものが登場し、早速使ってみた。で、このタイムラインの使い勝手がどうとか位置づけだとか影響だとかそういったことは全く分からないのだが、とにかくこのタイムラインを遡ると、「誕生」なる地点がある。要するに生まれた時のことだ。僕で言えば1978年1月23日のことである。


で、Friendの方が「誕生」用として古い写真をアップしていた。その方のお父さんが撮影したというモノクロ写真で、とっても良い写真だった。羨ましい!と思い、僕も早速実家のクローゼットを引っ掻き回して古いアルバムを見つけ、僕が生まれた頃の写真を探してみた。誕生したばかりの写真はどうも別のアルバムにあるようで、生後数ヶ月から2歳辺りまでの写真が貼られていた。幾つかiPhoneで撮影してみたので、この機会だからアップしてみる。
写真には、当時の僕の生活空間も写っている。そこから、当時の新聞販売店の生活というものも紹介してみたい。



こちらはおそらく生後6〜7ヶ月頃。昔の家の、作業場兼居間にて寝返りして喜ぶの図である。ハイハイはまだのようだ。娘と比べると大分のんびりした成長である。ちなみに、このアングルによる写真は数枚あるのだが、最後の1枚はうつ伏せになり顔が見えない。母親によれば、どうやら体に比べて頭が大きくて重いため、疲れてしまったそうだ。



これは、店の前のアーケードで母に抱かれている僕だ。ここは白石駅前の中心街であり、当時は活気があって人通りも多かったように記憶している。扉に色々なものが貼られているのだが、こうした掲示物が良く人の目に止まったということだ。店舗建物の壁には、写真ニュースの掲示板などもあり、モノクロの写真がいつも貼られていたことを思い出す。祭りのときには、目の前のアーケードに椅子を出して家族で見物した。近所にある八百屋・酒屋・レコード屋・肉屋、そうしたお店の皆さんとも良く交流し、僕も可愛がられたことを記憶している。中には苦手な人もいたけどね。



これは親父だ。親父の後ろに、時代を感じさせる車がある。当時、わが家の駐車場は2台分、しかも徒歩5分と離れたところにあった。そのうち1台分は現在も使用中で、駅前かつ息子が通う幼稚園の近くということで重宝している。しかし、当時としてはやや面倒であった。特に雨や雪の日は、わざわざ濡れながら駐車場まで歩く必要があり、子どもながらに面倒だった記憶がある。
それと父親の左手の下あたりに写っているのは祖父のバイクである。祖父はバイクしか乗らない。果たして車の免許を持っていたのか甚だ疑わしい。とにかくこのバイクにまたがり、ヘルメット(祖父によれば「鉄かぶと」)をかぶり、黄色い蛍光カラーのジャンパーを来て町中を闊歩していた。
道路を挟んで向かい側には自転車屋がある。配達用の車両として自転車がまだまだ主力だった時代だから、目の前に自転車屋があったのは大変便利だったに違いない。ちなみに、駅前にはもう一つ自転車屋があった。僕はどういうわけかそこの自転車屋で初めての自転車を買ったのでよく覚えている。



これは我が家の夕飯風景である。1歳を過ぎた頃だろうか。おそらく余ったご飯を2つある炊飯器の一つにまとめているのが母親で、横にいるのがもちろん僕、手前の笑顔が祖母で、頭だけ写っているのが父親だ。祖母の後ろに折込チラシが重なってある。翌日の朝、新聞に組み込むためのチラシだ。従ってこの写真は、夕飯時ということになる。生活空間と作業場が同じだから、どうしても折込チラシの脇で食事ということになってしまう。時々、僕がチラシに乗ったりして崩してしまった記憶も多々ある。今なら許されない事かも知れない。当時はこうして仕事や商品と共に生活するのが普通だったのだ。
ところでこの写真はだれが撮影したのだろう・・・。



これは、先程の夕飯の前ではないかと思われる。食事を待つ僕は、大分がっしりとした椅子に座らされている。今と比べると可愛げのない、丈夫そうな椅子だ。僕は食が細かったので、親もずいぶんと心配したらしい。まあ、今にして思えば、チラシは重なってるわホコリっぽいわ椅子は丈夫だわで、食事をする環境としては何というかもっと考えるべき点は多い。そうして仕事と生活の空間が分けられ、食事をする場所は清潔で素敵な空間を目指して現在に至るわけだ。
ところで、チラシの上に河北新報の手ぬぐいやエンドーチェーンの紙袋が見える。この時代に宮城県で暮らした人にとっては、懐かしいもののようだ。



三輪車に乗る僕。1歳半頃か。親戚の家の庭だと思う。当時の我が家には、庭と呼べる程の庭は無く、こうして三輪車に乗れるスペースというのは目の前のアーケード街しか無かった。かといって母親も仕事だし、当時はそれほど幼児用の公園などが整備されているわけでもなく、僕はアーケードやその脇道でよく遊んでいた。庭がある家に、ほのかな憧れを抱いていた記憶がある。この写真の近くには、近所の商店の人に抱かれている僕の写真も多い。近所との境目も曖昧で良かった時代だったのだろう。


こうして見てみると、生活と仕事がまるっきり区別されていない。食事や遊びの空間が、仕事や地域と密接に関わっている。結果的に、僕にとって新聞やチラシや商店街というものは、自らを養っている糧であり環境であると潜在的に感じることになった。今の僕の考え方に大いに影響しているに違いない。
もちろん、良い面もあれば悪い面もある。早朝の作業は近隣の人々に迷惑をかけたし、新聞屋として事業を広げるにはこの環境では狭すぎた。僕が小学5年の冬、現在の場所へ引っ越すことになった。これによってチラシの脇で食事をとることも(ほとんど)無くなったし、我が家の庭兼駐車場で充分に遊ぶことができた。しかし、引っ越した後の僕の写真を見ても、新聞屋であることは全く分からないし、近所の人と撮った写真も一切無い。それを合理的と呼ぶのか、寂しいと呼ぶのかは、人によって分かれるのだろう。


今、息子や娘の写真をたくさん撮っている。何気なく撮っている写真が、いつか子どもたちが成長したときにこうして記憶を遡るきっかけになれば良いなあ、とぼんやり思う日曜であった。

※2日間サボったのは仕事が進まなかったからです。自分にゴメンナサイ。