Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

異論反論オブジェクション

震災以降、TwitterをはじめとしてSNSの利用者が増えたこともあり、SNS上でのバトルをたくさん見てきた。特に福島第一原発事故に起因する、原子力発電や放射性物質をテーマとする議論は、SNS上だけではなくそれこそ2chでも、飲み会の席でも行われることとなった。中には非常に有意義な議論もあるとは思うのだが、どうも不毛な議論というか口論に終始してしまうケースが散見される。ネット上のことだから仕方はないとは思うし、僕自身もそれに近い議論をしたこともあるし、テレビ以上に「嫌なら見なければ」状態だし、僕がとやかく言うことでも無いとは思うのだ。


しかし、こうして議論が食い違うところを見ていると、リアルな場でもそんなバトルの現場があり得ることは容易に想像できて、いずれ僕もそんなところに巻き込まれたり逃げられなくなったりする可能性を考えると、一体どうすれば有意義な議論に持っていけるかということをしばし考えてしまう。


色々とポイントはあるだろうけれど、食い違いの要因の一つは「ゴールが違う」という点ではなかろうか。
例えば、原子力発電に関してネガティブというかシビアなスタンスを取る人の多くは、そのゴールを「子どもたちが放射線に脅かされない安全な環境を整えたい」に置いていると思う(違ったらスミマセン)。それには僕も全く同意できるし、おそらく日本中ほとんどの方が同意できるゴールの一つではあると思うのだ。子どもたちを危険に晒すわけにはいかない。どのような小さいリスクでも、避けられる危険は避けるべきなのだ。
ところが、原子力発電に関してポジティブというかソフトなスタンスを取る人の多くは、そのゴールを「日本経済を安定させ住みよい環境を維持させるために電力供給を安定させたい」に置いているんじゃないかと感じる(違ってたらスミマセン)。それもまた同意できる。これからますます少子高齢化が進み、年金や社会保障の問題が山積する今、経済の停滞はこれからの日本に暗い影を落とすことは間違い無い。


双方とも未来の日本に対して問題意識を持っていて、どちらも間違っているとは言いがたい。ところが、そのゴールが食い違ったまま議論すると、どうしてもお互いの非難に終始してしまって、時には極論に進んでしまい、有意義な議論には進まないケースになってしまうような気がする。
「子どもたちが癌になっても良いっていうんですね?」とか言われても困る。
「今電気が止まっても良いっていうんですね?」とか言われても困る。


従って、議論するにはゴールを同じくする必要があるのだ。それはそうなのだ。ところが、おそらく同じゴールを目指そうと認識合わせすることがまずは難しいんだろうなあ。
そこをうまく中間目標を定めていって、双方から意見を聞き、異なる点について認識を共有し、目標へのアプローチとしてお互いの意見に不足していたり間違っていたりする部分を洗い出すことができれば、ファシリテーターと呼べるんだろうなあ。