Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

デジタルだろうがアナログだろうが

PC遠隔操作事件の報道に関して、気になることがあるので今日はそれを。


2/11の朝日新聞の報道に、こんな記述があった。

首輪に仕込まれたメモリーカードには、「ソースコード」と呼ばれる遠隔操作ウイルスのプログラムが記録されていた


この記述が、知っている人にとってどれだけ変なのか、について詳しくはこちらを→http://matome.naver.jp/odai/2136059228164963201
要するに、コンピュータやプログラミングに精通している人にとっては日常的に使っているような専門用語の使い方を、記者が間違ってしまったのだ。おそらく記者さんはこうしたIT関連の用語などに触れずにこれまで記者としての仕事をやってきたのだろうし、これまではそれで済んでいたのだろう。しかし、時代はどんどんデジタル化・コンピュータ化が進んでしまい、遂に一般的な事件の現場にまでそうした用語が登場することになったのだ。


別な話になるけれど、つい最近こんなケースがあった。あるITに関連した重要な案件について、それなりの地位にいる年配の方が「我々には分からないから若い人に任せる」と丸投げしてしまい、僕も含めて“若い人”にくくられた人は、何がなんだか分からないままにその案件を担当することになったのだった。いやそれは無いでしょ、と、ある程度事態が収束した今も僕は何となく腑に落ちずにいる。


多分、歳をとるとそういったことに新たに取り組むことや勉強することが本当に嫌なんだろう。きっと。そして僕もおそらく、歳をとったときに実感するのだろう。きっと。


でも、申し訳ないけれど逃げられないと思う。
もはや、「この先は」「これからは」じゃなくて、「今」そのデジタル時代になってしまった。大変だとは思うけれど、記者のように正確な描写が必要な人や、それなりの地位にあって判断を余儀なくされる人は、頑張って勉強せざるを得ない。ただ、勉強と言うととても苦労するような印象があるけれど、思い切って機種変更してみたり、そういった分野に精通している人と会話してみたり、それだけで十分。


そして結論としては、一応それなりにIT分野に携わった後にアナログな世界に飛び込んだ人間として感じたこととしては、デジタルだろうがアナログだろうが本質的なところは同じということだ。
ハガキを送ることとメールを送ること、パソコンでつくる文書と手書きの文書、そうしたことの違いって実は枝葉であって、本質は「誰に(と)」「何を」がとっても重要なのだ。本質さえきちんと踏まえていれば、用語が分からなくたって、必要な判断を下せるし、求められている文章は書けると思うんだ。少なくとも、僕が知っている人で本質を捉えている人は、例えIT用語が分からなくたって本質を外していない。