Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

「原子力教育」は硬いから

原子力発電所の仕組みとか、放射性物質放射線量とか、やっぱり難しいと感じる人は多いようだ。僕の周りを見る限り、それ以前に「マイクロ」と「ミリ」あたりで既に嫌悪感に苛まれてしまい、もう「『安全』なのか『危険』なのか」の2択になってる。こうなると、もうセシウム131とか内部被ばくとか半減期とか臨界とか、そういった原発問題の核心的な情報に進めなくなってしまう。仕方ないとは思うけれど、原発がかかえている最も奥深い問題はもしかするとここじゃないかな。「万人に理解されることが難しい」という。


そうなると、国が進めてきた原子力発電を核とするエネルギー政策上の最も大きなミスは、義務教育における物理学の高度化を進めなかったことと言えるかも知れない。「理解できない人間には、安全だと言っておけばいい」そんなスタンスが、現在原子力行政に向けられている国民からの冷ややかな視線の一因だろう。


放射性同位体とは何か。核分裂反応によって得られるエネルギーの優位性と、副産物として生成される放射性廃棄物すなわち放射性元素の有毒性。放射性廃棄物の処理における考え方とリスク。核分裂反応を効率的に発生させるためにどのような技術が用いられているか。原子力発電をエネルギー政策の核とするならば、こういったことを、国民の基礎学力として養っておくべきだったのだろうと思う。


これから国のエネルギー政策は大きな変革を迎えるだろうけれど、少なくとも原子力発電所はすぐにはゼロにならない。というか、今後半世紀以上はずっと付き合い続けなくてはいけない。そのためには、義務教育における物理学のあり方を一度見直すことが絶対に必要だと思う。安全を確保したまま国民の税金を使って廃炉にしていくのだ。国民が十分理解していなければ、スムーズな処理は難しいだろう。もちろん、物理学に深く興味をもち、あえて廃炉に向かう原子力発電所へ夢を預けられる人間を見出さなければならない。困難だが、地道に教育を施す以外無い。


狩猟の時代には、大人は子供に狩りのやり方を教育した。稲作の時代には、大人は子供にコメのつくり方を教育した。今は、悲しくも原子力と付き合い続けなければいけない時代である。その時代に合った、必要とされる教育を考えなくてはいけない。


「ニュークリアエデュケーション」Nuclear Education、略して「NE」と呼ぶのは如何でしょう?「原子力教育」とか硬すぎる。