Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

FUKUSHIMA 2

昨年の夏以来の福島だ。

あの時は確か、妻の実家から戻ってきたときだ。行くなと泣き叫ぶ息子を置いて、昼飯も摂らずに京王線に飛び乗り、待ち合わせ時間に間に合うギリギリの乗り換えをこなしつつ、重い荷物を持ったまま3時間ほど立ちっ放しでようやく到着したのだった。ちょうど帰省ラッシュに遭遇することは予想できていたものの、荷物の重さは想定外だった。
僕は駅前のベンチにヘナヘナと座り、古関裕而像をしばらくの間見ていた。


あの時と変わらない、静かで綺麗な町だった。僕に取っては立派な都会だし、紛れもなく県庁所在地なのだけれど、どこかのんびりしていて親しみやすい、そんな印象も全く変わっていない。

僕は、ある期待を抱いてここに降り立ってしまったことに、このときはまだ気づいていなかった。


2件の打ち合わせを終えて、再び駅前に戻る。そして、もう一度駅前の風景を見回してみた。すると、朝に見た風景とはまるで違っていた。行き交う人々の顔が、どこか沈んで見える。力なく歩いているように見える。ここは、実は僕の知っている福島ではなかった。


津波の被災地へ行ったとき、現地で出迎えてくれた方々は元気だった。もちろん、とてつもない悲しみを抱え、毎日辛い生活が続き、目の前を閉ざす膨大なガレキの山に打ちひしがれることも多いだろうに、それでも元気だった。みんな、悲しんでばかりでは何も始まらないことを知っているし、なにはともあれ行動すれば少しずつ着実に前進することを知っていた。だからみんな、元気を出して本当に少しずつだけれど前に進んでいたのだ。
僕は、あろうことか同じような状況を福島にも期待してしまっていたのだ。


ところが、原発事故は違う。何も終っていない。終っていないから、始めることができない。ところが、終わりは全く見えない。例えすべての原子炉と使用済み核燃料が安定的に冷却できるようになっても、終わらない。すべての原子炉が廃炉手続きを終え、すべての核燃料が然るべき場所に運び出されても、終わらない。福島第一原子力発電所から飛んできた放射性物質がすべて崩壊しない限りは、この事故は終わらないのだ。前に進むことすらできない。


そして、これまで笑顔をつくり出してくれていた子どもたちも、ひとり、またひとりと福島県西部や他県に避難している。現在の線量を考えれば、少なくとも数年に渡る避難になるだろう。避難先で育った子どもたちは、いったいどこを故郷と感じるのだろうか。福島を愛し、将来故郷福島のために再び戻ってくるような人間が、果たしてどのくらい育つのだろうか。


福島を覆う悲劇は、予想を遥かに超える凄惨なものだった。僕には結局、他人事だったのだ。そんなこと、考えれば分かるハズなのに。なんて無力なんだろう。こんな福島を救うために、僕にも何か手助けできないだろうか。絵本を届けることで、僕は福島の再生に貢献することができるのだろうか。


駅前にあった綺麗な花時計に、少しだけ元気をもらい電車に乗った。


このまま電車に乗っていれば白石に帰れる。そう思うと、正直ホッとした。放射線量の問題ではない。僕の中で高まっていた気持ちが、もう少しで折れそうだったからだ。