Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

関羽さんチートっす

※専門用語+機種依存文字多数につき閲覧注意


三国志が好きだ。正確に言えば、三国志演義か。


きっかけは何と「天地を喰らう」なるファミコンソフトである。今思えば不思議なRPGだったが、とにかく移動スピードが高速過ぎて驚くやら快適やら。そして不思議な名前の登場人物たち。途中色々とメンバーは入れ替わるものの、最後は劉備張苞関興趙雲馬超黄忠諸葛亮(あれ、一人多いなw)の最強パーティで司馬懿司馬師司馬昭と戦うというストーリーであった。胸熱である。


その後、本屋で文庫本サイズの小説「三国志演義」を読んだ。実にあっさりと書いてあった小説という印象が残っている。ともかくこれで、曹操董卓の元へ宝刀を手に近づいたこと、呂布を操った貂蝉王允の策略、関羽による関門の突破が赤壁曹操を逃す遠因になっていること、的盧が導いた水鏡先生と徐庶諸葛亮への出会い、その他あらゆる有名なエピソードを根掘り葉掘りと読みふけった。いやあ、書いてるだけで胸熱である。


三国志演義の何が僕の心を捉えるのか。それは、歴史上のある「史実」の裏側に、ドラマティックな「物語」が存在していることを予感させるからだと思う。
実際のところ、三国志演義のほとんどのエピソードは創作であると言われている。正史三国志は、晋の時代に陳寿によって編纂された魏書・呉書・蜀書などの歴史書であって、今「三国志」として出回っている数々のエピソードは、民衆たちの間で伝説のように語り継がれた昔話なのである。なので、主人公と言われる劉備玄徳や諸葛亮孔明の活躍などは、これらの物語が統計的にまとめられ「三国志演義」となった明の時代背景を表してるとも言われている。


僕にとって、こうしたエピソードの真偽については、実のところどうでも良い。タイムマシンがつくられない限り、正確なことは誰にも分からないのではないかと思う。むしろ分からないからこそ、あれこれと自分の頭で想像する楽しみが生まれる。もしかしたらこうだったかも知れない。そんな風に考える事の何と楽しいことよ。一世を風靡した作品のスピンオフ作品が人気を博すのと同じではないかと思う。もし、あの物語の前にこんな背景があったら。あの物語のあと、当事者たちはどんな風に考えて行動したのだろう。三国志の楽しさというのは、そうしたスピンオフの集合体であって、なおかつその更なるスピンオフを自分の頭で考える余地がたくさんある点ではないかと思う。


周瑜孫策に召抱えられる前にどんな幼少時代を過ごしたかとか、徐庶が母と曹操のもとで暮らす日々とか、馬超韓遂とともに旗揚げするまでの苦労とか、考えるだけで楽しいじゃん!(もうそういう作品もあるかも)


「自分たちで枝をどんどん伸ばせる楽しさ」
ソーシャルネットワークの普及によってユーザーイニシアティブが求められる昨今、これはとても重要なキーワードかも知れない。小さくまとまっているよりも、受け手が新たな創作者となれること。全てに行き届いた完成度よりも、荒々しくも強いエネルギーを持つもの。もっとも、枝を伸ばすためには太い幹が欠かせないのも確かだけれど。


うむ。久しぶりに三国志系のシミュレーションゲームをやりたくなってきたぞ。