Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

友愛や共感があるから、人間は前に向かって進める

花見やら歓送迎会やらがようやく一息つき、先週末に崩した体調と精神もようやく回復の兆しが見えてきたので、ようやく文章を書く気力が出てきた。


気落ちから始める体調不良を通じて、ああやっぱり人間にとって精神の安定というのはとても大切なものなのだなあ、と改めて感じる。落ち込んだ時のために自分なりの回復手段を確立するのは、今ボクにとって最重要課題かも知れない。ただ飲みに行くだけでもなく、ただ寝るだけでもなく、僕なりの最善の回復方法を模索する日々。意外と、ただ電車に乗って本を読むということだったりするかも知れない。新幹線じゃなくて在来線ね。ガタンゴトンという音や人々の話し声という雑音の中で、本の中に広がる広大な世界に入り込むという時間が、僕の一番好きな時間かも知れないなあ。


唐突だけれど、放射能について語る。おそらくもう最後だ。


震災後しばらくは当たり前のように聞いていた「福島どころか宮城県南部へ行くことも避けている」という人の話を再び聞く機会があり、そういえばまだ2年しか経って無いんだよなあと改めて感じた。まあ県外の人からすれば宮城県内ほとんどが避けたい地域だろうし、関東の人からすれば東北に加えて茨城・栃木あたりも避けたい範囲だったりするだろう。北海道の人なら関東もダメ、関西の人なら東日本全域。仕事とか、どうしても行かなければならない理由があればともかく、避けられるなら避けたい、無理して行く必要もない、とそんなところだろう。スキーだって別に東北じゃなくたって滑れる山はあるし、食べ物だって東北産でなくても十分美味しく栄養のあるものが手に入る。
知人がいるとか、親戚がいるとか、そういったことがない限り、現地でどんな放射能対策がなされ、どうやって人体への影響を低減させているかなど知らなくても良いものなのだ。だって避ければ良いから。別に代替品があるから。
特に小さい子どもを持つ親はより過敏だ。


2年前にも全く同じように考えた結論だけれど、それはもう「仕方ない」と割り切るしかないように思う。いくら放射能対策の万全さや低線量被曝による影響の低さを訴えたところで、一度「絶対に嫌だ」になってしまったその感覚はひっくり返すことはできない。説得はできない。論破は無意味だ。
だから、そういった感覚に陥ってしまった親が、子どもへの影響を避けるためになるべく線量の低い土地へ転居し、仕事を変え、あるいは食べ物を変え、学校へ弁当と水筒を持たせ、毎日のように線量の低い土地へドライブへ行くのは仕方がないことなのだ。それが例え、子どもに寂しい思いをさせたり、親の経済的負担が大きかったり、交通事故による死亡率を高めることになろうが、それは全く関係がない。反論しようとしても、結局どちらの主張も自らの行動を正当化するために費やされ、意味のない空中戦を繰り返し、議論は不毛に終わる。
むしろ、そうした行動によって親が精神的に解放され、子どもへの有意義な時間を創造できるのであれば、それは歓迎すべきことなのだ。


しかしそんな中、わざわざ福島を訪れる人がいる。宮城県南部のこの辺鄙なまちに、わざわざ来てくれる人が少なからずいる。自分自身か、あるいは親の故郷かも知れない。仲の良い友人がいるのかも知れない。あるいはとても特異な趣味があり、何故かそれに合致する場所があり、放射能への恐怖を超える程の意欲を掻き立てるのかも知れない。中には憐憫とか、興味本位とか、そういった人もいるかも知れない。
僕たちは、改めて、そういった人たちとエンゲージメントを結ぶべきなのではないか。とてもとても仲良くなり、双方に分かり合い、さらに深い信頼関係を結ぶべきではないのか。そしてそれを揶揄する人たちを許し、ここを離れていく人を優しく送り出し、一般的なルールを外してまで何とか被曝量を低減したい人たちを温かく包み込むべきではないのか。
それこそが、顧客を面ではなくそれぞれが違う点だと認識すべきだという現代のマーケティングマーケティング3.0)に通づるものだ。これは何のことはない、インターネットとソーシャルネットワークが普及し携帯端末の高性能化が進み、量販店を始めとする流通業がその粋を極め、洪水と表現される情報の渦から何かを選ぶべき環境に立たされた我々消費者が生み出した「現代」そのものなのだ。消費者は、あるいは当社の製品には合致しないかも知れない。ならそれをきちんと伝えてあげる。あるいは、そういった方にフィットするような製品を、場合によってはその方と一緒に創造する。


反論したくもなる。つい論破したくなる。でもそれは無意味なんだ。敵意や落胆ばかりでは、人間は前に向かって進めない。
受け入れて、一緒に創るような、そんな世の中にすべきなんだ。友愛や共感があるから、人間は前に向かって進める


僕らは今、その真ん中にいるんだ。