Hang In There

蔵王の麓で新聞屋さんが子どものこととか震災のこととか思い出などを綴ります

マイ・コンセントレーションタイム

最近はランニングだけではなく、昼食後などの暇を見て散歩をするようにしている。せっかくの気持ちいい季節だし、眠くなる前に歩いて腹ごなしというわけだ。


それで気づいたのは、ここ数年、こんな風に自分だけの瞑想の時間を持っていなかったなあーということだ。電車での移動時間や休みの日のふとした瞬間は、ともすれば本を読んだり睡眠時間を確保したり、スマートフォンを眺めて過ごすことが本当に多くなってしまって、覚醒した意識の中で自分の中に閉じこもれる時間が無くなってしまっていたのだった。
走ったり歩いたりしている間は本も読めないし携帯電話を眺めることも難しい。もちろん眠ることもできない。自分の思考の中に入り込む以外にすることがないのだ。ラジオとか聴いてれば別だろうけれど。


そして、そんな瞑想の時間の貴重さにようやく気づきつつある。何というか、自分の中でも意外なことに、驚きとともにそれに気づいている。何故貴重なのか。それは、瞑想として何を考えているかに起因する。


僕がそんな時間にイメージしているのは、多くは「理想の自分」であった。僕は、未来の自分、すなわち、走り終わったあとの自分、今日仕事をしている自分、明日の自分、数日後の自分、数年後の自分、それを考えている。走り終わったら水を飲んで、ストレッチのあとは筋トレをしよう。今日はあの仕事をやらなければいけないから、こうやってスムーズに済まそう。明日は息子のサッカーの試合があるから、暇を見て応援して息子を褒めてやろう。数日後はもう少し走る距離を延ばして、いずれは毎日10kmを50分そこそこで走れるようになりたいな。いずれはフルマラソンにも挑戦したいから、今少しずつでも走らなきゃ。そんな風に考えている。


そうやって理想の自分をイメージしていくと、目の前の一歩が出てくるような気がする。止まらずに走り切る気力が湧いてくる。次にやるべきことに、直ぐに取り掛かりたい衝動にかられる。自分を前に進めるパワーが、エナジーが満ちてくる。僕に生きるエネルギーを与えてくれているような気がするのだ。


最近少し気力が不足しているような気がしていた。目の前の厳しい現実から逃げようとする自分を感じていた。そんな僕に不足していたのは、休息ではなく、自分だけの思考の時間だったのだ。


ランニングやウォーキングによって得られるものは、身体に対する物理的な影響だけではなく、僕の心に対する精神的な影響もあった。むしろ後者の方が、これからの生活全般に渡って僕に決定的に必要なものだったのかも知れない。


さて、明日もマイ・コンセントレーションタイムを楽しむこととしよう。